think03 -- ジャズを聴くことについての原理的考察 第3回

今エンピツで白い紙の上に長さ10センチの直線を描いてみる。これを直線Aとする。次にその下に同じく長さ10センチの直線を引き、これを直線Bと名づける。上からこれを眺めれば当然同じ長さに見える。
次に直線Aの両端から、長さ2センチほどの線を二本書き加え、Y字状に両端が開口した図形をこしらえる。そして直線Bの両端にも2センチほどの線を書き加え、こちらは矢印状にしてみる。
これを上から眺めるとアラ不思議、直線Aの方が長く見えるではありませんか。もちろんこれは、良く知られた「錯視」の代表的図形だ。(ミュラー=リアー、Muller-Lyerの錯視)おそらく皆さんも教科書などで一度はご覧になったことがあるだろう。
しかし大方の反応は、不思議な現象には違いないけど、それがどうした。といったものではなかろうか。私もそうだった。しかし頭の良い人たちは、そこからとんでもない結論を引き出す。
人間の視覚がテレビカメラのようなものだったら、線分Aに相当する情報が脳に伝えられA'となり、線分Bの情報は同じくB'として記録され、一度両者を同じ長さと認知したとしたら、それに余分な髭状の図形が加わろうが、判断が変わるわけがないと。
にもかかわらず変化してしまうのは、人間の視覚が、対象を部分の総合として把握しているのではなく、髭を含めた全体像を、一まとまりのゲシュタルト(形態)として認知しているからである。という結論だ。もう少し丁寧に説明すれば、われわれは紙に書かれた図形や夜空の月などの視覚対象を、背景を含めた全体として認知している。だから、トランシット(天測儀)を使って測定すれば同じ視角である地平線のすぐ上に出た月が、天頂に見えるときよりはるかに大きく見えてしまう錯覚も、両者の背景が、夜空の空間と、ビルや建物あるいは森の木々などのように異なっているからなのだ。(簡単に実験するには、背景が見えないように紙筒などを通して月を見てみるとよい)
しかし僕ら生活人は、そこまで説明されても、それはエライ学者さんたちがさまざまな実験の末証明したんだから信じますけど、それがどうした。というものではなかろうか。私もそうだった。しかしもっと頭の良い人はそこから革命的な思考を展開する。
1908 年フランスのロシュフォル・シュ・メールで生まれた哲学者、モーリス・メルロ・ポンティ(Maurice Merleau-Ponty,1961年没)は、ゲシュタルト心理学の発見を導入部として独自の身体論を展開し、「主客対立の図式」や「心身二元論」といった、われわれの「認識における暗黙の前提条件の誤謬」を、次々と暴き立てて見せた。
私は若い頃、彼の書いた「知覚の現象学 (叢書・ウニベルシタス)」(みすず書房版)を苦労して読み、ずいぶんとものの見方が変わった。とりわけこの連載のテーマである「ジャズを聴いたときに起こる感動の意味」を理解する上で、決定的な影響を受けたのがこの書物である。
だが、おそらく起こるであろう誤解を避けるために、次のことは明記しておきたい。それは、彼の本を読む前と読んだ後で「経験」自体には特段の変化は無いということである(厳密に言えば変わるのだが、それは後述する)。しかし、「経験の意味」を考える上で重大な変化を生じたのである。
具体的に言えば、チャーリー・パーカーの与えた感動の質に変わりも無ければ、ジャッキー・マクリーンのアルトにシビれる体験も、この書物とは無関係だ。ただ、音楽を聴いたときに自分の身体に起こったそれら体験の意味を考える上で、大きな変化が生じたということなのである。そしてその理解は、その後の音楽を聴く体験の上でも、現在のようにそれを書物で発表する上でも、基本となる大きな力となっている。
少し結論を先取りするが、世間には、けっこういいところまで身体では「体験」しているのに、「その体験の意味」を取り違えているため、見当はずれな見解に陥ったり、あるいはその「認識の誤謬」のため、本来わかっているはずのカラダの体験自体を、無理に歪め、あるいは否定するというような、迷路に迷い込んでいる人が少なからずいる。それも少しばかり「論理的に」ものを考える人に、この傾向が強いようだ。というか、少しばかり論理的に考えがちな私自身が、そういった間違いを多々犯していたことを彼の著作によって気付かされたのである。
それでもまだ、なんとなく哲学一般を「アタマでっかちな机上の空論」というイメージから、現象学的思考法の有効性を否定する方たちに、もう少し説明してみよう。私は中学から高校にかけ柔道の選手をしていた。神奈川県高校柔道68キロ級では一応名の知られた存在だった(組みがしらの内股巻き込みでは、秒殺の後藤と言われたんですゼイ)。また現在は年寄りの冷や水フルコンタクト空手をやっており、ぜんぜん強くならないけれど20代の道場生たちとスパーリングも行う(こちらの得意は、左のインロウと右の前蹴り。おかげで差し歯を折られたりもするけれど……)。
そうした身体技法を身につける体験を通して、メルロ・ポンティの身体論は実に説得力のある思考である事が実感できるのである。「カラダに覚えさせる」ということが精神論などではまったく無く、実に合理的な身体技術習得法であり、またそれ以外に技のおぼえ方は無いことも、彼の書物で納得させられたことである。
柔道を習っていたときはもちろんそんなことは知らなかったが、もし知っていたらずいぶんと上達が早くなっていただろうと悔やまれる。他方素直な習得者は、そんなことなど知らずとも、結果として現象学的理解のある人間と同等の結果を練習から得られることだろう。そして優れた指導者もまた、哲学などに縁が無くとも実体験から現象学的知見にそった指導法を行っている(これらの事象は、ジャズを聴くこととまったく同じ構造を持っている)。
ところで、ジャズを聴くことと、ハイ・キックをキメられるようになることと何の関係も無かろうと思われる方は、身体の不思議を理解しておられない。一般に受身の行為であると思われている、聴く、見る、といった知覚現象もまた、一種の運動行為であることを「知覚の現象学」は実証的に解き明かしている。
さて、ここまでガマンして読んでくれた方は、少しばかり「回り道」の意味が見えてきたのではなかろうか。まだ具体的な説明はしていないが、要するに「ジャズを聴く」というような〈感覚〉の問題も、柔道の、「大外」で相手を刈り倒すというようなダイナミックな全身の行為も、ともに身体の運動であるとするならば、当然「技術の習得」という側面が出てくる。
念のために付け加えるけれど、私がやったのは格闘技だが、サッカーだろうが野球だろうが、そしてもちろんすべての楽器の演奏技術も、運動の習得という点ではまったく同等である。そして身体の技法という意味では、蕎麦打ち職人など、さまざまな職人技も同じ視点で考えることが出来る。また意外なことかもしれないが、「歩くこと」といったほとんど無意識と思われる動作でさえ、「習得された技術」であることが近年「ナンバ」(手と足を同じ方向に振る歩きかたで、江戸期以前の日本人はみなこうして歩いていたといわれる。現在は手足を逆方向に振るが、これは近代軍隊の行進のために教えられたものだという)の研究などで明らかにされている。