think06 -- ジャズを聴くことについての原理的考察 第6回

虹の知覚が文化圏によって2色から7色までの幅があるという事実は、〈感覚〉の普遍性を否定している。つまり、当初の疑問のひとつ〈感覚〉は万人共通か? の回答は得られた。そこで次の疑問〈感覚〉は変化するのか? ということを考えてみよう。
19世紀の終わりに活躍したアメリカの心理学者G. M.ストラットン(G.M. Stratton)は、かけると天地が逆転する眼鏡を使い、さまざまな心理学の実験を行った。もっとも、われわれの眼球についているレンズ(水晶体)は凸レンズだから、網膜上には天地が倒立した像が映っており、それをひっくり返せば正立像になるのだが、それはさておき、この実験は実に興味深い結果を生じさせる。
まずこの眼鏡をかけると、最初は景色全体が非現実的で上下が逆になって見える。次いで正常な知覚が回復するが、被験者は自分の身体が逆さだという感じを抱く。だが驚くべきはこの異常な感覚は次第に立ち直り、1週間もすると自分の身体も含め正常な位置にあるように思われるようになるという。(「ストラットンの眼鏡」については、『養老孟司の“逆さメガネ” (PHP新書)』(PHP新書)の冒頭にこの眼鏡についての簡単な記述があるので、本屋で立ち読みするのも良いだろう)
この実験結果に対するストラットンの見解(視覚的に正立しているか逆転しているかは、視覚的経験が触覚的経験や身体運動経験に一致しているか否かによる)に対して、メルロ・ポンティは実存的空間論の立場から鋭い批判を浴びせているが、ここでは彼の展開する空間概念についての哲学的議論には立ち入らず、単に〈感覚〉自体が変容しそれが再び回復するという事実のみに着目しよう。この現象はその理由の難解な分析はさておき、人間の〈感覚〉なるものが実に柔軟で可塑性に富んだものであることを示しているといってよいだろう。(メルロ・ポンティの批判に関心のある方は、「知覚の現象学 2みすず書房版 p.62以下を参照のこと)
ストラットンの眼鏡をかけたことはないけれど、われわれは身近な「視覚の変容」の体験はしている。3D画像は慣れないとただの模様にしか見えないが、ちょっとしたコツで立体像が浮かび上がり、そしてその2次元平面から3次元立体視への変容はデジタル的、不連続に起きる。このとき水晶体の厚みを変えて焦点距離を調節する毛様体筋や、両眼を動かす筋肉群が協同して複雑に運動するのを感じることが出来る。これらの事実は、〈感覚〉が状況に応じて変化することを示唆している。
また、これらの現象は、われわれの〈感覚〉が物理現象の忠実な翻訳ではないことも同時に示している。3D画像の印刷してある紙は絶対に2次元の平面だし、そもそも網膜上の映像もまた2次元の平面であるにもかかわらず、われわれは生き生きとした奥行きのある視覚体験を得ている。それに対する説明は「両眼視差」であるとか、近年注目されている「アフォーダンス理論」*1があるけれど、どちらにしても、われわれの感覚器は、与えられた情報(2次元)から、それ以上の「意味」(奥行きを伴った3次元の体験)を生み出していることは間違いない。
以上は視覚の変容だったが、聴覚においてもわれわれは日常的に興味深い体験をしているはずだ。ガヤガヤとやかましい居酒屋で酒を飲んでいるとき、フト耳に「ドルフィーのソロはねえ」という会話の断片が飛び込んできた。アレっと思って“耳をそばだてる”と、3つ向こうの席に陣取った連中がジャズの話をしている。
よくある光景だが、このとき起こっていることはなかなか示唆に富んでいる。まず当初、離れた席の話し声は聞き手の意識にはまったく上っておらず、騒音にまぎれている。だが「ドルフィー」の一言で“耳のスイッチ”が入れ替わり、彼らの会話が居酒屋の喧騒からクッキリと浮かび上がったのだ。仮にその前後の室内の音響状況を、聞き手の位置からダミー・ヘッドを使って精密マイクで測定してみても、聞き手の耳のスイッチが入れ替わった前と後で、特段の変化は認められないだろう。
これは心理学用語で「カクテル・パーティ効果」と呼ばれるもので、カクテル・パーティの騒音の中からでも、目指す対象の話し声を聞き分けることが可能なところから命名された。オーディオ的に説明すれば、SN比が非常に悪い状態、あるいは明らかにノイズの中に信号が埋もれてしまっているような状況でも、人間の耳は目指す信号音を聞き分けることが出来ることを意味している。
これらの現象は明らかに〈感覚〉が変化することを示していると同時に、〈感覚〉なるものの不思議な性質を明らかにしている。まず〈感覚〉は、感覚器が受容しているであろう客観的な物理現象以上の情報をわれわれに伝えている。それは網膜が平面であるにもかかわらず、われわれは立体が認知できることからも明らかだ。それに対し、人間の目の構造に近い写真機やTV撮影機の画像は、レンズの作り出す画像の忠実な摸写像であるところの平面である。機械のほうが物理現象の結果としては客観的な情報を与えているのだ。
人間の視覚と写真機のズレを実感する事例に、見慣れた庭園などの光景が、写真に撮ると思わぬ広さに写っていることに驚かれたことがあるだろう。これは写真に写った距離感ほうが正しく、われわれの〈感覚〉は、遠方の事物を、網膜上に投影された画像の縮小比率より大きめに見積もっている(レンズの性質として2倍の距離にあるものは2分の一に、3倍の距離にあるものは3分の一に縮小されるが、人間の目はその縮小比率より大きめに対象を見積もる)。
ここのところは重要なポイントなので重複をいとわず説明すると、客観世界は明らかに空間的(3次元)であるが、網膜上の画像は2次元である。にも関わらず、人間は(ほぼ)正確に3次元を認知する。これはよくよく考えてみれば実に不思議なことなのだ。つまり人間の感覚器はそこに起こった物理現象(この場合は網膜上の倒立した2次元の平面画像)以上の内容を含む、奥行きを持った正常な視覚を得ている。遠方のものを大きめに見積もることも含め、要するに〈感覚〉なるものは客観的ではなく、すでにして「意味づけられて」いるのである。
これに次いで重要なことは、〈感覚〉の変容は主体の「動機」によって起こるという事実である。3D図像は、それを3D図像と知らなければただの模様だ。それを眺める人間が立体視しようという「動機」を持つことによって、はじめて立体視が可能になる。カクテル・パーティ効果も、特定の対象を聞こうと「聞き耳」を立てなければ起こらない。ストラットンの実験も、被験者が生活の必要から、本来とは異なった異常な知覚から正しい結果を得ようという「動機」によって、次第に外界と適応していく。
さて長々と遠回りをしてきたが、ジャズを聴くことの不思議を考察する道具立てが少しずつそろってきた。整理すれば、〈感覚〉なるものは万人共通ではなく、物理現象の忠実な翻訳でもなく、あらかじめ「意味づけられて」おり、それは主体の「動機」によって容易に変容してしまうものなのである。
多くの人が個人の感性の結果と信じている趣味趣向が、実はこのような不思議な性質を持つ〈感覚〉の上に乗る不安定な構築物であることを理解しているか否かは、その人間のものの考え方に大きな違いをもたらす。
結論を先取りすることになるが、〈感覚〉から得た情報によって、その対象に対する「好悪」、あるいは「良否」の判断を加えたものである「個人的感覚」と呼ばれるところの「センス」「趣味、趣向」「美意識」といった類の価値基準も、当人が信じているほど個人的なものでも、また絶対的なものでもありえない。
各人が個人的価値基準と信じるものも、土台となる〈感覚〉の持つ匿名性(たとえば虹を七色に認知するのは日本人にとっては個人的特性ではないし、音色より音程に関心を示すこともまたヨーロッパ人にとっては個人的特性ではない)によって、すでに汎人格的要素を含み、また〈感覚〉自体が変容する可能性を秘めているところから、その上に乗る価値も絶対的ではあり得ないのである。
とはいえ〈感覚〉の分析から直ちに「ジャズ的価値観」の分析に進むことは出来ない。なぜかといえば、〈感覚〉のもつ一般的性質から、「ジャズ聴取」というかなり特殊な事例を考察するには、途中に踏まねばならない段階が、聴取者の側にも、ジャズの側にも、まだ残っているからである。

*1:アメリカの心理学者ジェームス・ギブソン(James J. Gibson、1904年生まれ)の提唱した「アフォーダンス」という概念は、知覚についての非常に有益なアイデアを提供してくれるので、知っておいて損はない。またこの理論は、今流行の人工知能にも決定的な影響を与えている。簡単な解説書としては、佐々木正人著「アフォーダンス-新しい認知の理論 (岩波科学ライブラリー (12))」(岩波科学ライブラリー12)が分かりやすいので薦められる。