think07 -- ジャズを聴くことについての原理的考察 第7回

この連載の最初に話したことを思い出していただきたいのだが、私がジャズを聴き始めたころの素朴な疑問として、「仮に感覚が万人共通ならすべての人がパーカーに感動するはずなのにそういう兆候はない。また、一人の人間の感覚が常に同じなら、今まで単なる騒音としか聴こえなかったものが、急に意味のある音楽として聴こえるのもいぶかしい。」そもそも感覚とは何なのか、という問題を提示した。
その答えは出たともいえるが、まだ中途半端なものだ。たしかに感覚の普遍性が否定されたのだから、すべての人がパーカーに感動しないのは当然である。しかしその理由として、民族単位、あるいは言語圏単位の大きな範囲の文化の違いを持ち出しても、それはそうだろうが多くの人の関心は、同じ日本人の、しかもジャズ・ファン同士のパーカーに対する評価の違いの理由なのではなかろうか。
また、〈感覚〉が変化するのだから、騒音が急に意味のある音楽となることだってありうるのではないかという推論も、果たしてそのとき起こっていることを「カクテル・パーティ効果」と同じレベルで考えてよいものだろうか。ジャズの演奏は人の話し声とは違うだろうという疑問は残る。要するにまだ話のきめが粗すぎるのである。
とはいえ、ここまでの考察で得た一定の成果も確認しておいて良いだろう。世間には、優れた芸術は万人を感動させるはずだとか、美に国境はないといった「美しい」スローガンを掲げる人がいるけれど、ここまでの話を理解された方はもうそんな単純な話には惑わされないはずだ。
こうしたナイーヴな普遍性への信仰が、発言者たちの善意にもかかわらず、かつての「大東亜共栄圏」的、夜郎自大(広い世界を知らない井の中の蛙という意味)な思考回路と馴染みが良いという危険性も、十分理解されたはずだ(アジアはぜんぜん一つなんかじゃない、そもそも「アジア」という概念自体が、「オリエンタリズム的」なヨーロッパの側から見た恣意的カテゴライズなのだ)。
そうした単純で退屈な考え方のもたらす危機は現在も進行中であり、グローバリゼーションの名のもと世界は抑圧的な画一化へと迷走しつつある(海の彼方を望見せずとも卑近な例を挙げれば、元をたどるとすべて同じ経営の居酒屋、飲食店チェーンを見よ!)。グローバル・スタンダードという発想は資本主義が本質的にはらんでいる効率主義の必然的結果なのだが、それに対するかつてのコミュニストの側からの批判が無効だったのは実証済みだ。しかし彼らとは違った回路からの資本主義批判は今こそなされるべきだし、この論考も最終的にはその道に連なるものとなるだろう。
話を元に戻せば、〈感覚〉に対する基本的理解が出来ていれば、「音楽は感じるものなのだから、ジャズが分かるようになるという言い方は教養主義的である」という、これまたありがちな思い込みにも惑わされなくなるだろう。感性の土台となる〈感覚〉が変化の可能性を秘めているのだから、「分かるようになる」ということだって十分ありえるのである。
とはいえ「分からない」ものより先に、とりあえずは「一瞬にして感じて」しまった音楽体験を分析してみるほうが戦略的には有効だろう。そうすればそこから陰画のごとく「分からないもの」の姿が浮かび上がってくることだって期待できようと言うものだ。そこで自分の具合的音楽聴取経験に即して考察を進めてみる。
高校生のころ、ラジオから流れ出た「ハード・デイズ・ナイト」を聴いて驚愕した。この話も冒頭に書いたが、この出来事は私の音楽体験の中でも特異なものだった。それはまさに一瞬にして訪れた衝撃で、冒頭のコーラスだけで彼らの音楽は私にとって「カッコよいもの」として認知されたのだった。
しかしこの「一瞬体験」は改めて思い起こしてみれば決してビートルズが最初ではなく、ほぼ同時期に流行ったロネッツの「ビー・マイ・ベビー」がそうであるし、1960年のチャビー・チェッカー「ザ・ツイスト」がそうだった。ただそれらはビートルズの圧倒的体験に比べて衝撃度が低かったに過ぎない。
僕ら団塊世代が中学生から高校生にかけて育った時期は、ちょうどアメリカンポップスの黄金時代と重なっており、中学入学の年1959年のレイ・チャールス「ホワッド・アイ・セイ」に始まり、チャック・ベリーマーヴィン・ゲイコニー・フランシスブレンダ・リーロイ・オービソン、デル・シャノン、ニール・セダカポール・アンカベンチャーズアストロノーツビーチボーイズといった連中のヒット・チューンをそれこそ浴びるようにして聴いてきた。
特に僕らは早熟だったのか、中学生のころ、友人の家を根城に麻雀宅囲みつつ、各人が持ち寄る上記アメリカン・ポップスのLPを聴きまくる生活をしていた。それらは私が幼稚園児のころ観た映画の中で美空ひばりが歌う「りんご追分」とは決定的に違う何かとして、私の体に染み込んでいったのだ。
しかしこうした「洋楽体験」にもちゃんと予習期間があって、上記本場ものには必ず中尾ミエ飯田久彦、広田三枝子といった日本人歌手による日本語歌詞つきカヴァーが作られ、順序としてそこから入っていくのが一般的音楽ファンの道筋であった。もちろん私もそうだった。
何が言いたいのか。要するに「一瞬」といっても、そこに至る十数年の間に、僕らの世代は少しずつ少しずつ時間をかけ「ビートルズの音楽に含まれるもの」を「感覚的に」咀嚼してきているのである。彼らリヴァプールの4人組が憧れたアメリカンポップス、そのルーツともいうべき大衆化された黒人音楽の感覚を、僕らはすでに「知って」いるのだ。
そしてこの体験は私一人のものではなく、同世代の音楽好き少年たちが共有した感覚であり、その広がりはほぼ第二次世界大戦後の自由主義圏全域に広がっていた。日本で団塊世代といわれた1947年生まれを頂点とした世代は、アメリカではベビーブーマーと呼ばれ、後にベトナム反戦運動の主軸となり、ヨーロッパでは学生運動が大きな政治的事件となった1968年にちなんで「1968年の世代」などと言われるが、それらはすべて同じ世代に属している。
この戦後世代の特徴はカウンター・カルチャーに対する関心の高さであり、そしてその中核となるのがアメリカンポップスであった。要するに1962年10 月、キューバ危機と時を同じくしてビートルズが「ラヴ・ミー・ドゥ」でデビューしたとき、時代の感性はそれを受け入れる準備が出来ていたのである。