think12 -- ジャズを聴くことについての原理的考察 第12回

前回、ありがちな誤解を防ぐために、とりあえず自分のパーカー体験は知的理解ではないと言ったが、ここまでの連載を通読していただいた皆様には、もう少し本質的な話をしてもよいだろう。より深いレベルで考察すれば、数学の問題が解けるということも、ある種の身体動作が統合されるということも、そしてジャズがわかるようになるということも、脳細胞の結合状態の飛躍あるいは組み替えと考えれば、まったく無関係ということはないだろう。現に幾何学で、図形上に補助線を引き、問題解決するときに起こる視覚上のさまざまなプラクティスは、明らかに身体感覚を伴っている。
また論理的命題の構造を理解するとき、さまざまな概念の範囲を平面状に配置して考えることは論理学のヴェン図*1において試みられている。つまりはロジックの理解は図形の認知と並行関係を持っているのだ。
よく話題になる「ジャズの定義」は、歴史的に見れば「ジャズと呼ばれる演奏の集合から、帰納的に導き出されたジャズの共通性質と推論される要素」を、とりあえずの内包としたものにすぎない。しかしよく考えてみれば、ジャズの内包を導き出す帰納推論を行う前提条件である、ジャズの外延を枚挙するには、予めジャズの内包が知られていなければならない。
しかしこうした循環論法は、「ジャズ」のような自然発生的概念が成立するときに必ず起きることで、われわれはその循環の輪の中に身を置きつつ、変容を続ける時代時代の「ジャズの共通項」なるものを眺めているわけだ。従って「ジャズの定義」とおぼしきものが、時とともに変化するのは当然のことなのである。すなわちわれわれは「良い循環」の中に入ることが求められている。
煩雑を恐れず具体例を挙げれば、1950年代までのジャズの共通性質のひとつには「一般的にアコースティック楽器によって演奏される音楽」という項目があったかもしれないが、それは1960年代末以降、マイルス・デイヴィスの意欲的試みによって改変させられてしまった。1950年代までのジャズマンの内包条件を満たしていたマイルス、の演奏した音楽=ジャズの外延が、1960年代末以降ジャズの内包を変えさせてしまったのだ。すなわちここでジャズの定義が変わったのである。
しかしこうした事例は、1940年代半ばのチャーリー・パーカーらによる「ビ・バップ革命」の際も、1950年代末のオーネット・コールマンらによる「フリー・ジャズ革命」の際も起こったことで、ジャズの歴史の中では特段珍しいことではない。そもそも人間の文化的営為であるジャズの定義なるものが、あたかも自然科学の法則のように永久不変と考える硬直した思考法の方が常識を欠いているのだ。
これはロックとて同じことで、1955年のビル・ヘイリー「ロック・アラウンド・ザ・クロック」、翌1956年のエルヴィス・プレスリー「ハート・ブレイク・ホテル」の共通性質をロックの定義とし、そこからはみ出すからと言って、後のビートルズ「サージェント・ペッパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」を、ロック・ミュージックではないというようなバカな話に納得するファンはいない。したがって良識ある読者は、今後そうした俗論に惑わされるようなことがあってはならない。ジャズが、そして音楽が変化するのは当然のことなのである。
パーカー体験に戻れば、この時点で以前よりはジャズ向きに再組織されていた私の感覚が、ことばの助けによって、意識的に合わせるべき焦点が明確になっていたということが大きいと思う。「ことばの助け」というのは、「パーカーは優れたジャズマンである」という、私の周りの信頼できる友人たちのことばであり、またその理由として挙げられた、「パーカーの凄さはアドリブに現れている」という二つの重要な提言のことだ。
もちろん私はそれらのことばを盲目的に信じたのではない。友人たちのことは信じるけれど、彼らの体験した感覚を、自分も身体で確認した上で信じたということではなかった。だからこそ、そのことを確認したかったというのがパーカーと対峙した理由なのである。
ここのところは重要なポイントなので後ほど丁寧に展開するが、われわれの感覚が発動するに当たっては、常に言語の作用が介在していることを忘れるべきでない。ありがちな俗論に「他人のことばに惑わされている」という言い方があるが、そもそも言語的価値の媒介を受けていない「純粋感覚」などというものは存在しない。それは虹の知覚と、その言語による文節作用を思い起こせば明らかだろう。われわれの知覚は言語とセットになって現実世界と対応しているのである。
深夜閉店後、店でパーカーのアルバム(まだアナログだったダイアル盤)を繰り返し聴いていると、あるとき突如としてアドリブ部分でとてつもないスリルを感じるようになった。これはたとえて言えば、今までパーカーの音を外から眺めていたのが、急に自分自身が音響と一体化してしまったような融合感である。音楽の内部にいる感覚である。こういう体験は皆さんもおありのはずで、演劇を見ているときなど、最初は舞台という虚構空間を外部から冷静に眺めている自分を意識するけれど、もし演技者に十分な技量があれば、ある瞬間から自分自身がその演劇空間に没入し、今そこで行われていることはフィクションであって現実ではないというような覚めた意識を持つことなく、状況に感情移入してしまうはずだ。これと同じようなことが起こったのである。
この「意識的」というところがかなり重要だ。それまで5年に及ぶジャズ喫茶生活でもパーカーは聴いていたが意識的ではなかった。というかこれはちょっとまずい発言なのだけど、当時の私は、自分の好きなもの以外はあんまり真面目に聴いていなかったのだ(しかしこれはごく一般的な音楽ファンの態度ではなかろうか)。
ここでジャズという音楽の特殊性が浮かび上がる。これは私が信頼する音楽評論家、黒田恭一氏が雑談の折話してくれたことだが、氏に言わせると、音楽には二種類あって「音楽の方から寄り添って来てくれるものと、聴き手が音楽に寄り添わなければ聴こえてこない音楽」があるという。もちろん氏はその後者がジャズだと言ったわけではないのだけど、こちらはその言い回しが気に入って勝手に使わさせていただいている。
ジャズのすべてがそうというわけではないが、どちらかというとジャズは、こちらから音楽の方に寄り添うようにして、「いったい君は何をやっているんだい」と尋ねるような気持ちで聴かないと、なかなかその本性を明かさないようなところがある。これに対しポピュラー・ミュージックは、音楽の方から、「ねえ、聴いて聴いて」とばかり寄り添ってくるのだ。これは、商業的に成功しなければ意味を持たなくなってしまった現代ポップスの宿命だろう。
言うまでも無いが、これはどちらが優れているというような話ではない。単に違うというだけのことだ。そしてこの違いを簡単に要約してしまえば、芸術音楽と大衆音楽の違いと言ってしまってもよいと思う。ここでもありそうな誤解に先回りして答えておけば、芸術音楽が高級で、大衆音楽が低級だというつもりもまったくない。これも単に違う価値基準によって成立している二つの音楽というだけである。前者が演奏者の自己表現に重きを置き、後者が聴き手の嗜好を第一義においているという価値観の違いだ。そして付け加えれば、両者の境界は厳密に決定できるものでもなく、またジャズという音楽自体が芸術音楽と大衆音楽の双方にまたがっている複雑な音楽なのだ。
ある時期から、日本のジャズ論壇(なんてものがあるとしての話だが)では、ジャズの芸術性について正面から議論をすることを忌避してきたように思う。それはジャズをカウンター・カルチャーの枠に収めこむための暗黙の了解事項のようになっていた。つまり芸術は正統文化に属し、カウンター・カルチャーは芸術というカビの生えた概念自体を相対化してしまうというわけだ。一理ある話だしわからないでもない。だがそのことによって、見えにくくなっていることがあるのも忘れてはいけないだろう。
そこでひとつの提案がある。芸術ということばの意味を再定義してみたいのだ。もちろん、歴史的に形成されてきた含蓄あるこのことば意味が簡単に覆えると思っているわけではない。そうではなくて、私がこれから展開しようと思うアイデアを説明するために、具合の良い角度からこの概念に光を当ててみたいのである。

*1:ジョン・ヴェンが考案した図で、論議世界(論理学の命題において、論議される暗黙の領域のこと)を、周囲を囲われた四角で表し、その中に描かれた円の範囲内が外延を表すような図形。二つ以上の外延の、相互の包摂関係を直感的(視覚的)に理解するの大変便利な図形。外延(extension)=名辞(概念)が適用される対象の集合のこと。例: ジャズマンの外延は、マイルス、コルトレーンエヴァンスなど。概念が適用される対象の共通性質を、その概念の内包(intension)または意味(meaning)という。概念の内包を明確にし、その外延を確定する手続きのことを、定義という。