think13 -- ジャズを聴くことについての原理的考察 第13回

仮に、人間の感覚を拡張し、深化させるものを芸術であると定義してみよう。言うまでも無くこんな内包は大きすぎて、余計な外延を大量に呼び込んでしまう。マリファナだってヘロインだって芸術だということになりかねない。もちろんそんな俗受け狙いの主張をするつもりはなく、あまりにも正体不明となってしまった芸術というコトバの使い勝手を良くしようというだけだ。
ちょっとムシの良い話ではあるけれど、皆さんの中にある常識的な芸術概念はそのままにしておき、それらに「人間の感覚を拡張し、深化させるもの」というキーワードを差し込んでみるのだ。そうしてみるとさまざまな物事が見えてくる。
たとえばあのヴィンチ村のレオナルド描くところの、怪しげな表情をした御婦人像も、21世紀の目で見てそれが芸術であるというから、芸術概念が神秘的でなにやら教条主義めいた胡散臭いシロモノに映るのだ。だが想像してみよう、500年前の人間になってみたと仮定すればどうだ。あの輪郭をぼかしたようなスフマート技法も、かつてパルコの広告で一世を風靡した山口はるみのエアーブラシによる女性像ではないけれど、当時としては最新のハイテク表現だったのではないか。
ダヴィンチ・コード」によれば、小ぶりな「ラ・ジョコンダ」はレオナルドが常に持ち運び、身辺に置いていたということだから、これを見た人は限られていただろう。そこではるかにサイズが大きく、修道院の食堂に掲げられより多くの人の目にふれた、有名な「最後の晩餐」のことを考えてみよう。これまた中学校の美術の教科書に出てきた薄らぼんやりとした図版の印象から、「おゲイジュツ」のネガティヴで辛気臭い印象しか子供たちのアタマに刷り込むことが出来なかった。
だが、当時の人々の身になってみれば、この作品は間違いなくスペクタクルな驚きに違いない。出来立ての極彩色で輪郭も鮮明な大画面は、私がガキのころ毎週見ていた東映時代劇が、モノクロからカラー・シネマスコープになった時のような圧倒的な感動を人々に与えたことだろう。
もちろん信心深い当時の人間にとって、その感動の中身は描かれた宗教的内容かもしれないが、まずもって目をひきつけたのは液晶TVの広告じゃないけれど「大画面の迫力」ではなかろうか。感動の引き金は感覚なのですよ。そしてその背後には、計算されつくしたレオナルドの遠近法やら構図、人体描写の妙がある。
人を驚かすには、昔懐かしいシネラマの例を出すまでも無く、とりあえず感覚の幅を広げるのが一番だ。単色より極彩色、小より大、より実物に近い描写、平面よりは立体、などなど。もちろんそうした制作物は単に人を驚かすだけで、いわゆる常識的意味での芸術性を備えていないものだって数多く存在する。
では、感覚を拡大させても芸術ではないと言われてしまうものには何が欠けているのだろう。それを「深さ」としてみたらどうなるか。ところで人は、このことばを使うとき、暗黙のうちに「精神の深み」というようなことをイメージしがちのようだ。だが、私がここで言う深さはそういう意味ではない。感覚にも深さは存在するということを忘れてはいけない。
感覚には広がりと同時に、奥行き、深度というものがある。これは視覚上の比喩を用いた表現だが、それ以外の感覚についてもこの言い方は当てはまる。聴覚は明らかに3次元を認知している。目をつぶっていても、音、気配がどの方向から来るのか分かるからこそ、座頭市は見事に仕込み杖を振るえるのだ。決して彼は、超能力者という訳ではない(はずだ)。
味覚だって、基本は甘さ、塩からさ、酸っぱさ、苦さの4味しかないけれど(どうやら近頃はやりの「辛味」は複合感覚のようだ)、それらの微妙な組み合わせから生まれる複雑な味わいを、たとえば「深みのある甘さ」などと表現する。確かにお汁粉を作るときにちょっぴり塩を入れると、味に「深み」が出ますよね。ダシの旨みなどは複合された感覚の典型だ。要するに私の言う感覚の深みとは、感覚対象の複雑さ、精妙さを正確に感知する能力と言い換えることも出来るだろう。
話を本考察の焦点である音楽に限れば、「人の感覚を拡張、深化させる音楽が芸術的音楽である」という、とりあえずの定義がでてくる。言葉を変えれば、今まで聴いたものに比べ「何か別のものとしての音楽」という言い方も出来るだろう。これは、かなり良く出来た芸術音楽の定義ではないかと私は考えているのだが、自分だけ言っていても仕方が無いのでその使い心地を試してみよう。
まず民族音楽をこの定義に当てはめてみる。民族音楽は本来自然発生的なもので、農村の日常、狩猟民の生活、氏神様への宗教儀礼といった、人々の共通体験の中から生まれた共同体の音楽だ。付け加えれば、われわれはレコード、CDなど録音機能の発達により、無意識のうちに音楽を聴覚の対照として捉えがちだが、音楽は本来それが演奏される場と切り離しては考えられないものだった。
音楽は単独で演奏されることはむしろ珍しく、儀礼、祭礼あるいは行事といった特別な出来事とセットで演奏され、聴く方もそうした特別な空間の中で視覚、嗅覚など聴覚以外の感覚も含めた全身の体験として音楽を享受した。そこではまず優先されるのは人々の共通感覚で、共同体の構成員たちが良しとする音の秩序が、民族音楽の基本構造をなしている。
まあそれは当然のことだろう。そもそもそのようにして出来た音楽を民族音楽(あるいは民俗音楽)と呼んでいるのだから。だからこそ、そうした音楽は、違う価値体系の中で生きている他の共同体の構成員にとっては意味不明のものであったりもするし、それで一向に不都合は無い。この話は小泉文夫さんの著作の引用に出てきたことだ。
さて、こうした音楽は人の感覚を拡張させるだろうか。長年に渡って同じ共同体の構成員たちの間で良しとされてきた音の秩序(それは文化体系の秩序でもある)は、研ぎ澄まされ、深くなることはあっても、短期間で著しく変化してしまってはうまくないだろう。その許される変化の幅は、村人や部族といった共同体構成員の、大多数の感性が変化するスピードと、一定の関係を保っていなければならない。そうでなければその音楽は、それこそ異民族の音楽のように意味不明となってしまうからだ。
よって、民族音楽はそれが演奏される人々にとっての芸術音楽とはいえない、と私はみるのである。もちろん共同体の外部の人間が聴けば、「何か別のものとしての音楽」には違いないが、それは単なる違和に終わりがちで、共同体内の人間が感知しているであろう対象の精緻な構造までも聴き取るに至るのきわめて困難なことだと思われる。というのも民族音楽は聴覚だけの体験ではなく、彼らの世界観や生活全体が反映された全人格的体験の対象だからである(これも、アフリカ原住民の音楽を理解しそこなったヨーロッパ人の話として、すでに述べた)。
この事実は、民族音楽の価値が芸術音楽より高いとか低いとか言う話とはまったく別次元で、単に違うというだけのことである。
では次に、ポピュラー音楽を先ほどの定義に当てはめて考えてみる。こちらはもう少し話が複雑だ。というのも「ポピュラー音楽」自体が、複雑な過程を経て生まれてきた混血音楽だからである。
中村とうようさんの労作『大衆音楽の真実』(ミュージック・マガジン社刊)を読んでみよう(この著作は、今となっては懐かしいサヨク思想と、そこから出てくるクラシック音楽への異常な敵意を除けば、やはり音楽ファンにとっての必読書といってよいだろう)。

ポピュラー音楽という言葉で僕たちが思い浮かべるさまざまな音楽様式−ジャズ、タンゴ、サンバ、ソン、カリプソ、それにシャンソンなどが、いずれも19世紀末から20世紀初頭(第1次世界大戦前後)にかけて生まれてきたのは、決して偶然の一致ではない。(p. 210)

そして、19世紀後半から20世紀初頭にかけて進行した大衆社会化の過程と市場経済の発展、さらにレコード、ラジオ、楽譜印刷といった複製技術の開発が、音楽の商品化を促し、それまでの音楽の国際化の限界を打ち破って、真の意味でのポピュラー音楽というものの成立を可能にした。(p. 212)

とうようさんはまた、ポピュラー音楽の源流をなした動きを、次元の異なる二つの視点から説明する。

ひとつは、共同体からのハミダシ者だった放浪芸能者がやがて都市周縁部に巣食って、秩序を侵犯するものとしての地歩を固めてきたこと。もうひとつは、ヨーロッパがアジアやアメリカを侵略し植民地化していく中で、植民地の中核都市がかかえた混血児たちによって混血音楽が作り出され、それらが目に見えないネットワークを形成していたこと。

ジャズ、タンゴ、サンバ、ソン、カリプソなどはいずれも、もと植民地だった地域の拠点都市で生まれたものであり、ストリングス・バンド / ブラス・バンドのネットワークがそれらを生む基盤となった。(p. 210〜p. 211)

ここで述べられている重要なポイントは3つある。まずポピュラー音楽はせいぜい100年程度の歴史しか持たない近代の音楽であるということ。またそれらは特定の地域共同体の伝統に結びつくというより、混血的でかつ商業的要素をもった混交音楽であるということである。
それだけにこうした複雑な来歴を持つ音楽群を一括りにしてしまうのは乱暴だが、大雑把な見取り図なら示すことができると思う。まずこれらの音楽は、共同体と強固に結びついた民族音楽に比べればはるかに可塑性に富んでおり、容易に変形しうる。というか、実際にさまざまな地域の音楽要素が混交し、変形した結果生まれた国際的音楽が近代のポピュラー音楽なのだ。
そこを見れば聴き手の感覚を拡張する程度は、民族音楽よりは大きいということが言えるだろう。しかしその一方で、ポピュラー音楽の持つ商業音楽としての側面が、感覚の拡大と深化に一定の歯止めをかける作用をなすことも忘れてはならない。
民族音楽のように固定された同一の対象(同じ村人たちのような)ではなく、ポピュラー音楽は近代の大衆という捉えどころの無い不特定多数の聴衆層を聴き手としている。自分自身も含めて、大衆というものは日々の生活によって培われた日常感覚というものを大切にする、極めて保守的な存在だ。もちろんちょっと目先の変わったものに興味を示すことはあっても、ものの見方が根底から覆るような対象に対しては、なんであれ無意識の拒絶反応を示しがちだ。
そうした一般大衆を相手とした音楽は、彼らの嗜好を無視するわけにはいかない。そしてその嗜好をマスとして捉えれば、時代の感性の平均値に収まるか、せいぜいがその枠組みから半歩先程度の見通しが利く地点までが大衆の許容範囲なのである。
こうした限界条件のため、ポピュラー音楽の多くはすでに出来上がった感性の秩序を最大限に利用しようとする。“ティン・パン・アレー”の楽曲のコード進行の多くが特定のパターンに収まっているというのも、そこに理由がある。またAABA形式という典型的な曲構造も、人間のメロディ認知能力の限界をわきまえた上で、AからBに移行するときに生じる「計算された驚き」の効果を狙うと同時に、最後にAに戻って聴き手を安心させるという巧みな作曲技術だ。
このように見てくると、ポピュラー音楽一般は、民族音楽に比べれば聴き手の感性を拡大させる可能性を秘めているとはいえ、あらかじめ聴衆の嗜好を前提としているという点で、決定的な飛躍への志向が薄い音楽であるということが言えると思う。もちろんそれは否定的な要素ではなく、むしろポピュラリティを獲得するための当然の条件と考えるべきだろう。