think15 -- ジャズを聴くことについての原理的考察 第15回

人の感覚を拡張、深化させるものが芸術であるという、私流定義に従ってルイ・アームストロングの演奏を聴いてみれば、まさに彼の音楽は芸術であった。しかしそのことを理解するに至るには、根源的なジレンマが横たわっていることを見逃してはならないだろう。
というのも、拡大した感覚はそれ以前には感じなかったものだし、深化した感覚もそれ以前には区別できなかったものだ。つまり定義上芸術は、いつも未知の感覚を秘めていることになる。ここが問題だ。分からないものをどうして知るのか。
今までこの考察は、もっぱら感覚とはなんぞやという問題に終始し、モラルや姿勢といった人間の精神的領域にはふれないで来た。しかしここに至って各人のものの考え方、内面的価値観にまで言及せざるを得ない段階を迎えた。
あなたは芸術を求めているのか? この問いを私流に言い直せば、あなたは自分の感覚をそのままで良しとしているのか? と、言い直せるだろう。あるいは、あなたは自分の感覚の幅を広げたり、深めたりしたいとは思わないのか? という形の問いに翻訳することも出来る。
人が自分の感覚をそのままで良しとしているなら、あえて分からないものを聴く必要は無い。しかし、もしあなたが自分の感覚を不十分なものと感じているなら、それは拡大されなければならず、深めねばならない。その過程に現れる対象は、必然的に未知のものということになり、未知である以上、それを見たり聴きいたりすることが良い結果を生むのかどうか、事前には分かりようがないのだ。要するにバクチである。
言ってみれば芸術に関心を持つということは、結果の分からないことに賭ける意志があるのかないのか、ということにもなるだろう。それは、常識的な効率性や経済原則の外にあるものの価値をどう見るかという、個々の人間の世界観ともかかわりを持ってくる。
ところで私はというと、どう考えても自分の感覚が特別に優れたものとは思えない。まあ10人並だ。だが自分の半生を振り返ってみるに、私の周りには明らかに私より優れた感性の持ち主たちが山のようにいた。A君の推薦するアルバムを聴けばエッ、こんなのがあるのと驚かされるし、B君の貸してくれた本を読めば、そうか、こういう世界もあったのかと目からウロコということが10代から20才にかけての思春期に数限りなくあった。
そういう体験の持ち主にとって、この設問の答えは明らかだった。私は切に自分の感性の幅を広げたいし、深めたいと思った。それは別に教養コンプレックスということでもない。もっと直裁で貪欲な欲望だ。だって、A君に借りた「キンクス」のアルバムは絶対にカッコよかったし、B君の教えてくれた「酩酊船」は、ことばにたいする認識を根底から覆してくれたのだから。
そういう私から見れば、自分の感覚を良しとしている人は、よっぽど自分のセンス自信があるのか、あるいは無欲であるのかのどちらかだ。
パーカーにしろサッチモにしろ、事前に彼らの音楽が自分の感覚を拡張させ、深化させてくれるという保証はどこにも無く、ただ人の言葉を信じて聴くという行為に賭けた。その結果、私は彼らの美味しい部分をしっかりと聴き取ることができるようになり、ということは彼らの音楽を楽しめ、それは同時に自らの感覚の拡張と深化を伴っているという、一石三鳥の果実を手に入れることが出来たのである。
三羽目の鳥は何かといえば、ボタンと糸のたとえ話ではないけれど、以前より拡張し、深化した感覚のアンテナに引っかかってくる獲物は、ある時点を越えると飛躍的に増大するという経験的事実だ。これは味覚にたとえれば分かりやすいと思うけれど、嗜好の幅が広がれば旨いと思える料理の数が増えるのである。そりゃそうだよね、好き嫌いの激しい人は旨いまずい以前に、食べられるものがすでに少ないんだから。
サッチモが分かれば、楽器を身体に引き付けたベンのテナーやマクリーンのアルトの面白さに開眼するのは造作も無く、パーカーの即興にスリルを感じれば、コニッツやドルフィーにシビれるのは必然といっても良い道筋となる。芸術を渇仰するのはスノブ精神の表れなどという生易しいものではなく、欲望の深さなのである。
ところで私は、感覚が拡張深化するとき事前にその可能性はわからない、未知のものをどうして知ることができるのかと言ったが、ヒントはあったわけだ。パーカーについて言えば、友人たちの評価であるし、サッチモについては油井さんの書物が聴いてみようというきっかけになっている。要するにコトバによる動機付けがあって、感覚のプラクティスが始まった。
もう少し詳しく言うと、実際はそうした友人たちや油井さんのコトバ以前に、情報ソースが何であったかは忘れていても、当然パーカーの名前もサッチモのことも知っており、音も聴いたことがある。だが取り立ててそこから感銘を受けることも無かった。にもかかわらずあえて「再度」彼らの音楽に挑戦したのは、ジャズとは何かをより正確に知りたいという願望があったからだ。
もちろん20代の頃の私に、芸術とは何か、とか、感覚と何ぞやといったことごとに対する明確な展望なぞあるわけもないけれど、“欲望の曖昧な対象”(ルイス・ブニュエル)としてアートがあったことは間違いない。そしてその引き金となったのは、日々いかに左利きの相手を投げるかしかアタマにない柔道少年を驚かせた、煌くようなランボーの言葉であり、当時まだ誰も名を知らないレイ・デイヴィスの魅力的なしゃがれ声だった。未知の対象を教えてくれるコトバとセットになった感覚の体験が、私の欲望に火をつけたのである。
ここにようやく、感覚とそれを発動させるコトバの関係、それに人間の意志(欲望)の3点がセットになった、芸術をめぐる問題構造が姿を現したことになる。付け加えるならば、コトバの問題とは評論活動のことでもあり、また、以前予告した言語と感覚の重層した諸関係のことでもある。
分かりやすいところから手を付けていこう。自分自身の体験から言っても他者のコトバは大事だった。優れたセンスを持った友人たちとの何気ない雑談が、如何に私をインスパイアーしたことか。またそれらの言説の背後にある啓蒙的評論の影響も計り知れない。ジャズ評論の世界に油井正一が居らず、ロック評論家中村とうようが存在しなかったとしたら、私たちのポピュラー音楽観はずいぶんと底の浅いものとなっていたに違いない。
ありがちな俗説に音楽は好みで聴けば良いというのがある。だからアルバム購入のガイドとなるような紹介記事は良いけれど、個々の演奏の価値判断にまで及ぶような批評は不必要であるという立場だ。こうした意見は大衆音楽については一理あると思う。大衆音楽の価値は、最終的には聴き手の集合である大衆が判断する。
しかし芸術音楽の価値はそうした人々の多数決で決められるようなものではない。仮にそのようにしてしまえば、一般人の感覚の平均値を超えるようなものは絶対にみとめられないということになってしまう。現に1959年オーネット・コールマンが『ジャズ来るべきもの(+2)(完全生産限定盤)』を出したとき、賛否両論の嵐が巻き起こった。仮にこのとき彼の音楽の価値を多数決で決めるようなことがあれば、どんな答えが出たかは火を見るより明らかだろう。
私流の芸術定義に従えば、芸術音楽は人の感覚を拡張深化させるものである以上、聴き手の大半はまだその感覚に慣れていないことになる。現にカリフォルニア時代のオーネットの評判はさんざんだった。ごく一部の優れた感覚の持ち主(オーネットの例で言えば、ジョン・ルイスなど)が対象の美点を理解し、そのことを友人に告げるなり、評論するなりの言語過程を経て芸術作品の持つ先鋭的感覚は世間に広がっていく。
多くの人が未だ気付かない新たな感性の誕生を、コトバによって指摘すること。この作業は芸術作品の価値が顕在化する過程において欠かせない。ところで感覚はコトバでなく音楽もコトバではない。ではどうやってコトバは新たな感覚を伝えるのか。
たとえばパーカーのアドリブのスリルと言ったって、百万語を費やしたとしてもスリルの感覚それ自体には到達しない。コトバに出来るのは単に指摘し、指摘した対象を比喩によって想像させるだけだ。しかしそれは無力なことではない。現に私は、パーカーは凄いということと、アドリブを聴けというたった二つの指示に従って彼の演奏を聴き、その結果自らの感性の秩序が改新されたのだから。もちろんそこには、聴いてみようという意志、分からないものを分かるようになりたいという強い欲望があった。
そろそろ問題の本質が見えてきたようだ。一般に芸術と呼ばれるものが価値を持つためには、作家、作品だけがあれば良いのではなく、対象をめぐる言説活動によって触発された人々の意思、欲望が不可欠だ。芸術作品を意味あるものとするのは作品それ自体の自立した価値ではなく、享受者の感覚の中で対象が意味あるものとして浮かび上がってくることが絶対に必要なのである。
芸術活動において享受者は決して副次的な存在ではなく、作品は受け手の眼差しの中ではじめて価値を顕在化させるのである。ということは芸術活動を意味あるものにする責任は、作家のみならず享受者にもあることになる。ましてや両者の間に位置する評論活動の意義は、人が考えているよりはるかに大きい。というのも人々の無意識を規定しているのは、時代の言説の集積であることが少なくないからである。