think20 -- ジャズを聴くことについての原理的考察 第20回

ジャズという音楽の価値を決めるのはジャズファンの共同主観であるが、近年は、もっぱら個人の趣味趣向を優先するあまり、ジャズはどういう要素を重視する音楽なのか、ということに対する感覚が鈍くなっている層が増えている。このところジャズ的価値に対する基準軸が揺らいでいるのも、価値形成を担うべき人々が極端に自己の内部に「ひきこもり」、己の価値を他人と共有しようという姿勢を放棄してしまったからだ。
このこと自体は冷徹な現実として認めるしかないが、果たしてそれでよいのだろうか。それでみな満足しているのだろうか。どうもそのようには見受けられない。はじめのうちこそ、すでに出来上がった「権威」から解放された自由な言説空間を享受していると思い込んでいた層も、次第にその空間自体が閉塞していることに気がついてきた。当初好奇の目で見られ、90年代あたりからは肯定的な見方も現れるようになったオタク的世界の限界が21世紀に露呈したともいえるだろう。
ごく少数の仲間内の評価が、外部からはまったく関心をもたれていないことの虚脱感。価値というものが、原理的に他者のまなざしの中で成立するということにようやく彼らは気付いたのである。価値なるもの一般が、他者の存在を前提とした共同主観的相互作用によってしか生まれないということを思い知らされたのだ。個人の世界観がそれなりの敬意と尊厳を持って迎えられるのも、その人を含む共同体が彼、彼女の価値判断を有意味なものとして認めるからであり、あらゆる他者の存在を無視した「個人的価値」などというものは空虚な幻想である。思い出の品を大切にするというまさに私的な行為も、その特定の品物自体は他人にとっては無価値であろうが、そうした人間の行動は誰しも有意味であると認める。
いささか不穏当なたとえかもしれないが、自分勝手の極致のような無差別殺人ですら、その犯罪行為を非難するであろう他者のまなざし(ネガティヴな形での自己の存在証明)を前提としているし、まったくの個人的行為であるはずの自殺までもがそれを見届ける同行者を要求する有様だ。これらは極めて不幸な例であるが、それでも彼らが切実に他者を求めていることは見て取れる。悲劇は、自らの行動の原因に彼らが無自覚であったり、あるいはうすうす気づきながらもまっとうな「他者からの容認」の回路を築けないところにある。要するにコミュニケーション能力の不足がこれらの問題行動の根底に存在するのだ。
私が提案したとりあえずの芸術の定義「感覚の拡大と深化」にしても、その拡大と深化を共有する他者の存在を前提としているのであり、人はどう思おうとも関係ないという独我論*1な境地を目指すものではない。そもそも己の感覚を拡大深化させるということは、コミュニケーション能力の拡大深化と不可分に結びついた行動なのだ。
簡単に考えてみても、感覚のダイナミックレンジが大きい人は小さい人の思考パターンを容易に類推できるが、その逆は不可能だ。つまり感覚の幅が狭いということはコミュニケーション能力の相対的不足を意味する。趣味というものは本来多様な価値の並立(さまざまな趣味趣向、そうしたものの対極にある現実の経済活動、そして思想宗教等の精神生活など)を前提とした上で、自分は音楽であるとか盆栽いじりであるといった、そのうちのひとつ(あるいは複数)を採るというもののはずが、近頃は他の価値の存在に極端に無関心であったり、場合によっては価値自体を独我論的に構築しようという(それ自体が矛盾に満ちた)動機によって営まれるありさまだ。
一部の人は共同主観性*2という概念を、なにか全体主義的な画一思想と似たようなものと勘違いしたり、あるいは個人の自由と対立する概念と思い込んでいる節がうかがえるが、これは大きな誤解である。ジャズ的価値観はジャズファンの共同主観によって支えられているといっても、それは何か純粋で単一な本質に帰結するようなことはありえず、再三言ってきたことだが客観的なものでもありえない。
また個人の自由といっても、その個人自体が感覚という匿名的な知覚作用によってあらゆる判断の基礎を支えられているのだから、個人と共同主観性を対立項として捉えること自体が見当はずれだ。そもそも個人のアイデンティティを基礎付ける言語作用は、代表的な共同主観の産物である。
個人的趣味への偏重が(本人も意識しない)共同主観性の賜物であるからこそ(それとはまた別の部分集合に属する、ジャズ的価値観を支える)共同主観の成立に益しないというパラドックス(よく考えれば当然のことなのだが)を、少し厳密に検証してみよう。
たとえば日本人にとってRとLの発音の違いは無意味だが、英語にとっては有意味である。これを楽音に当てはめてみれば、ある文化体系に属する聴取者の知覚構造にとっては有意味な音響の差異が、他の文化体系にとっては無意味ということになるだろう。客観的には同一の音響現象が、それを聴取する文化層によって異なる意味を持ちうるという、この連載ではすでにお馴染みの現象だ。
この事実をジャズという音楽について少し具体的に考察してみよう。ルイ・アームストロングの名盤『プレイズ・W.C.ハンディ』(Columbia)の冒頭に有名な《セントルイス・ブルース》が吹き込まれている(「さわりで覚えるジャズの名曲25選 NO.2 (楽書ブックス)」に収録)。日本の平均的音楽ファン(なるものが存在するとして)がこれを聴けば、まあ、よく知られた曲目をやっているのだから、それなりの(既知の対象に対する好意的)反応を示すことは十分考えられる。
このとき聴き手に起こっている出来事は、まずメロディの認知(再三言ってきたことだがこれもゲシュタルトの把握である)によって《セントルイス・ブルース》という曲目を同定するという現象だ。ここまでは特段ジャズファンだけの特権というわけではない。
だが、そのメロディを担うトランペットの音色に注目してみよう。異様に鮮明に音のエッジが立ち、それでいながら流麗さを失わないサッチモサウンドは、それまでわれわれが漠然とトランペットに抱いていた、高い音を輝かしく吹き鳴らす楽器のイメージを超える強い存在感を持って聴き手に迫ってくる。また、フレーズのところどころに付けられた微妙なビブラートは、あたかも人の話し声のようにして、この音響が強い個性(肉体性、身体性と言い換えてもよいだろう)を持った一人の人間によって発せられていることを実感*3させる。
見方によれば、これはかなりアクというか押しの強い音色である。そして、そうした個性的表現をよしとする感覚は、ジャズファン特有の価値観であるといってよいだろう。またそうした固有の音色によって演奏されるメロディ・ラインが、記譜された楽譜を正確に再現する体の平板なリズムではなく、微妙な間、音の強弱によるアクセントがつけられていることにも気が付くだろう。そしてその独特のアクセントを好ましいものとして感じる感覚は、まさにジャズファンのみの特別の価値観だ。
メルロ=ポンティは、デカルト的心身2元論(思惟する精神と延長を持つ身体)に由来する「主知主義」、およびその対極の立場である「経験論」をともに批判し、身体の運動性こそが根源的な志向性であり、意識とは身体を媒介としてものへと向かう存在であり、意識とはほんらい「われ思う(je pence)」ではなく、フッサールが『イデーン-純粋現象学と現象学的哲学のための諸構想 〈2‐1〉 第2巻 構成についての現象学的諸研究』以後しきりに言っていたように「われなし能う(je peux,Ich kaum)」なのだ(「知覚の現象学 1みすず書房p,232)と説く。
また彼は「視覚も運動も、われわれが対象と関係する特殊な仕方」なのであって、それこそが「われなし能う」という「実存の運動」であり、身体の運動性そのものに、初次的な「意味付与(sinngebung)」の能力が認められることになる(同p,232)と言う。
つまり、身体がある運動習慣を獲得するとき、言いかえれば、身体がその運動を「了解し」それをおのれの世界に統合するとき、一つの意味が把握される、ただし、運動的意味が運動的に把握される、のである(同p,240)(参考文献、木田元著「メルロ=ポンティの思想」岩波書店、p,147より)。
以上を踏まえた上で本論に戻れば、まず「視覚も運動も」を、「聴覚も運動も」と読み替えることにことさら異論はないだろう。そしてそれが対象、すなわちサッチモの演奏と関係する特殊な仕方であるということは、演奏に注意深く耳を傾けること自体が運動性を備えた行為であることになる。また、運動性そのものに意味付与の能力があり、それがある運動習慣(聴覚の再統合)を獲得するということは、それまであるいは無意味な騒音と聴こえていたものが、まさにサッチモの肉体を感得させる有意味なものへと転じたということである。これこそが「了解し、それをおのれの世界に統合する」ことであり、再三言ってきた「ジャズがわかる」という現象の現象学的意味である。
ところで今、便宜的にサッチモによる《セントルイス・ブルース》冒頭の演奏についていくつかのレベルに分けて記述してきたわけだが、これらの現象は別々に認知されるわけではなく、時間軸に沿って展開される同一の音響現象として人間の耳に入ってくる。人は特有のリズムに乗った固有の音色を持つ、しかし記譜のレベルではある客観性を持った《セントルイス・ブルース》という曲目を聴く。その上でこの演奏を良いとか好きとかあるいは無関心であるといったさまざまな反応を見せるわけだ。
仮に人がこの演奏に対して、知っている曲目を演奏しているというレベルでの好印象を抱いたとしても、それはジャズという特別の音楽に対する評価というわけではない。だが、リズム、音色までも含めた音響現象の総体を、ジャズにおいて重視される部分に注意を払ったうえで演奏を評価したとすれば、それは明らかにジャズ的価値観に基づいた判断だ。客観的には同一であるはずの音響に対して人間はさまざまなレベルでの認知を行うことがありえるのだ。
若干乱暴なたとえではあるが、この場合、日本人にとっての英語カタカナ表記が一般音楽ファンにおいてのメロディ認知であるとすれば、R,Lの聴き分けがジャズファンにおけるリズム、音色の聴き分けに相当するといってもよいだろう。
言うまでもないが、これはR,Lの聴き分けができることが優れているという意味ではないし、ジャズファンが一般音楽ファンよりえらいということではない。そもそも日本人にとってR,Lの判別は不必要、無意味なのであり、すべての音楽ファンがジャズファンである必要性もまったくなかろう。さまざまな音楽ジャンルには特有の対象に対する繊細かつ厳密な認知の構造があり、それらはすべて平等なのだ。クラシックファンがジュニア・クックとティナ・ブルックスの違いを聴き分けられなかったとしても恥じる必要はさらさらなく、同じようにジャズファンがソナタ形式とは何かを知らなくとも何の問題も生じない。
という前提において、仮に日本語を母国語として育った人間が、英米人に対し、われわれにとっては無意味なR,Lの違いのある英語は不合理な言語だといったらどうだろう。これは明らかにおかしな議論だろう。だが、一部の無知蒙昧な音楽ファンは同じことを言っているのである。自らが生まれ育った音楽環境*4がメロディ認知を優先し、そのメロディが乗っている音色、リズムに対して相対的関心が低いからといって、むしろ音色、リズムの固有性を優先するジャズを、メロディという狭い窓枠から覗き見て裁断しようという傲慢さには呆れるしかない*5
ところで私は、ここで例としてあげたサッチモの演奏を、ジャズ的に優れたものであるという前提で話しているのであるが、それは私の個人的趣味の問題というわけではない。というのも、私の個人的趣味(それを自然的感性の秩序とすれば)から言えば、この演奏は当初決して好ましいものとしては聴こえなかった。それこそ平均的日本人の知見である《セントルイス・ブルース》という楽曲に対する認知に基づく好印象、以上のものは抱かなかったのである。もちろん繰り返し聴きたいとも思わず、そもそもジャズファンがこの楽曲の演奏者、ルイ・アームストロングを特別の存在としている理由が理解できなかった。
なぜその判断が変わったについては、既にこの不定期連載14回目で説明したとおり、ジャズという音楽に関心をもった私が油井正一氏の発言を検証する形で、ジャズの世界で良しとされているルイ・アームストロングの演奏を繰り返し聴いたからだ。もちろんジャズに関心を持つ、というレベルでの判断は個人的だが、その内容の個別的評価は、自分自身がすでに持っている自然的感性の秩序(要するに無意識レベルで既に獲得されている知覚のゲシュタルト)を、改変、再組織することによって獲得したものである。このとき私の指向性は、己の内部ではなく、ジャズという未知の価値体系へと開かれている。繰り返すが、このとき私の身体に起こった変化が、感覚の拡張であり深化なのである。

*1:自己意識のみによって一切を構築する世界観ゆえ、絶対的に正しいが、その正しさを証明する他者も、誤りを指摘する他者もいないという根源的矛盾を背負った哲学的立場。

*2:間主観性(intersubjectivity)、あるいは相互主観性ともいい、複数の人間の間で共有される物事の見方、捉え方のこと。

*3:ここで言う「実感」は、たとえば新聞の経済欄を読んで不況を実感するというような知的な理解ではなく、「間身体的な共感の場」が成立するという意味である。間身体性=モーリス・メルロ=ポンティが、1955年発表の「哲学者とその影」において、おそらくはフッサールの「間主体的な身体 der intersubjektive Leib」という概念に示唆され「間身体性intercorporeite」という用語を使用する。参考文献、広松渉著「メルロ=ポンティ岩波書店、 20世紀思想文庫9、p,241より

*4:平均的日本人がメロディの認知を優先するようになったのは、歴史的に見てそう古いことではない。明治以降、洋楽が学校教育の中心にすえられるようなってからだ。伝統的邦楽は、むしろ「間」や、(三味線の音色などに見られる)濁りも含めた音色の変化を音楽表現の重要な要素としている。ただし「間」とリズムは同じ原理には還元できない。

*5:厳密に言えば、ここに人が感じたことを言葉にするときのズレが作用している可能性があるのだが、それについては後に詳しく述べることにする。