think21 -- ジャズを聴くことについての原理的考察 第21回 

ジャズを聴き始めた人がジャズ的価値を身体で体得するには、未知のスポーツに挑戦するのと同じように身体訓練が必要であり、それはミュージシャンが演奏技術を習得する過程と原理的に等しい。要するにこれは「ジャズ耳」を作り上げる作業であり、目的はジャズ的な意味での「良い耳」の持ち主となることを通し、自らの感覚の幅を拡大深化させることである。
なぜ「ジャズ耳」なのかといえば、あるいは、このジャズに初めて接する人は、すでに「クラシック耳」あるいは「ロック耳」、そして場合によっては「演歌耳!」を獲得しているかも知れず、だからこそ、それらとは「違う価値」「異なった感覚」としての「ジャズ耳」が要請されているのであり、決してさまざまな音楽ジャンルの中でジャズを特権化しているわけではない。ただこの習得は難しい。スポーツは水泳ならタイムの向上など、上達の過程が実感できるが、ジャズ的価値の体得は、それが出来ているのかどうかわかりにくい。音(音楽ではなく)は、誰にでも聞こえてしまうからだ。
その難しさを補い上達を促進するのが、言語によるコミュニケーションである。この場合「言語」は広義の伝達作用のことで、文字情報も身振りによる身体言語も含む。長年ジャズを聴き慣れた友人とジャズ・クラブに行ったとする。彼は演奏を聴きながら体を揺すって音楽に没入している。ジャズを聴き始めたばかりの私には、どこが面白いのかさっぱりわからない。
しかし友人がその演奏を良いものとしていることは身振りから想像がつく。そこで少し恥ずかしいけれど友人の真似をして、ドラマーの刻みだすリズムに合わせ、膝を揺すってみる。始めは友人に合わせ、次第に自分のペースで。そのうち、今まで演奏を外から醒めた目で眺めていた自分が、少しずつ音楽と一体化し、その内部に参入しているかのような感覚が生まれてくる。
これは友人の身体言語によるジャズ理解へのコミュニケーションの一例だ。おそらくは音楽に対する原初の共同主観が誕生する現場は、こういったものだったのではなかろうか。誰かの吹く笛の音に聴き入る人間が一人でもいれば、演奏者と聴き手のとの間に原初の共感が生まれ、そしてその場に通りがかった第3の人物が笛の音に魅せられ立ち止まり、最初の聴き手と同意のまなざしを交換したとすれば、その身体言語が「間身体的な共感の場」が成立したことを明示し、そこに原初の共同主観性が成立する。
歴史的にこうした体験の集積から、ある音の響きを良しとし、またある演奏にはさほど魅せられないという身体感覚を基にした了解事項が、共同体の人々の感覚の摺り合わせを行ったことであろう。
だが、当初「共通感覚の確認」であった身体言語や評価の言葉は、それらが集積されていく過程で、次第に良い音楽の規範とでも言うべき「理念」を形成する機能を持ち始める。ある共同体にとって、高い音を強く出すことが彼らの美意識に適うことが相互に確認されたとすると、人々の間に、当初の単なる良き感覚の共有から「強く高い音は良い音だ」という理念形が、言語を媒介として誕生することになる。言語作用による「感覚から理念へ」の最初の変換だ*1
だがこの「強く高い音は美である」という価値が理念となることは必然ではない。「中音域を滑らかに響かせることが美である」という、別の共通感覚を持った共同体の存在も考えられるからだ。当初の「感覚」から、「強く高い音は美である」あるいは「人の話す声の音域で、滑らかに響かせることが美しい」などなど、さまざまな共同体の間で無数の音楽の「理念形」が生まれることになり、当然それらは諸民族の言語が異なるように普遍性を持ち得ない。
さてそこで一旦理念性を身に纏った「音楽の言葉」は、面白いことに感覚自体を規定する力を獲得するようになる。共同体の共通感覚は楽器を、演奏技術を彼らの美意識に沿うように発展させ、またその美の規範に沿った演奏には賞賛が与えられる。そうなればその音楽に初めて接する共同体の幼児も、その音の響きを良しとする感覚を身に着けていくのは自然の成り行きだ。すなわち幼児は、言語の習得がそうであるようにして、無意識のうちに共同体の音楽的身体感覚を学習させられる。理念が感覚を組織するのだ。
歴史的にこの場面だけを切り取ってみれば、あたかもアプリオリ(最初)に(共同体にとっての)優れた音楽の理念形が存在したかのように映ることになる。もちろん「共同体にとっての」という見方は後世のわれわれの鳥瞰図的認識なのだから、当事者たちにとっては、その理念形はあたかも普遍性を帯びたものであるかのごとく信じられる。
そうした音楽における理念形の最初のものが、いわゆるピタゴラス主義と呼ばれるものだろう。ピタゴラスの定理で知られるピタゴラスは、紀元前570年にサモスで生まれ496年頃メタポントスで死んだ。自身では著作を残さなかったと言われるが、彼が中心となった秘密結社(あるいは新興宗教)のような組織「古ピタゴラス団」が、後に再興され「新ピタゴラス団」呼ばれることとなる。「新ピタゴラス団」は二つの流れに分けられるが、そのうち「数学者」と呼ばれたグループは音と数の関係に注目し、音楽の練習を生活規範の一部とした。
ピタゴラス学派は数があらゆるものの原理(アルケー)であると説くが、その論拠は、さまざまな音が楽器の弦の長さと一定の関係にあり、2対1はオクターヴ、3対2は5度、4対3は4度となるところからきているという。アリストテレスは『形而上学』一巻5章で「ピタゴラス学徒によれば、天界の構造の全体が音階(調和)と数である」と記している。この理論は、精神史にくりかえし現れる「天界の協和音」という考えを、最初に呼び起こしたものである。
以上は、ヨハネス・ヒルシュベルガー著『西洋哲学史 古代』(高橋憲一訳、理想社刊)p. 54〜p. 57にかけてを要約したものである。余談ながら、日本における神学研究の中心とされる上智大学哲学科で教科書として使用されていたこのヒルシュベルガーの翻訳4巻本(古代、中世、近代、現代)は、ナカナカ面白い。特に古代編を読むと、人間の想像力の原型を見る思いがする。現代にも生きるさまざまな世界観のほとんどすべてが、すでにこの時代に誕生しているのだ。人と議論していると、本人も自覚しない暗黙の前提として、古代哲学の世界認識が援用されるのをみるのは珍しいことではない。
また、かつては暗黒時代とされ、さすがに近頃はそういった偏向した見方も修正されつつある中世編が充実している。プラトンをセコンドに付けたアウグスティヌス組対、アリストテレスをコーチとしたトマス・アキナス一派による対立図式が、有名な「中世普遍論争」の背後にあり、それが形を変え、近代の仁義無き「観念論対唯物論抗争」にまで尾を引いている、などということを知るための基礎知識をこの書物は与えてくれる。もっともこの対立をあまり重視するのは間違っているとヒルシュベルガー先生はおっしゃるのだが、何事もプロレス的に見立てたほうがわかりの良いワタシの頭では、そうした東スポ的理解でこの書物を楽しんだのだが……また中世編はオカルト・ファンおなじみの「新プラトン主義」についての正確な理解を得るための良き参考書ともなるだろう。
「普遍論争」とは何かということに興味を持った方(まあ、ほとんどいないだろうけれど)にオススメなのが、定価6900円とちょっとお高いのが難点だが、山内志郎氏の力作『普遍論争―近代の源流としての (中世哲学への招待)』(哲学書房刊)である。一般に神の存在規定についての論争とされる「実念論」対「唯名論」が、形を変え現代人の思考(といってもほぼ西洋人に限られるのですが)に流れ込んでいることが実感されるだろう。若干話題がペダントリーに流れた感もあるけれど、思いのほか進化しない人間の思考パターンの枠組みを概観しておくことは、今後の議論にとっても有益なのだ。
ピタゴラスに戻れば、和声構造を宇宙の原理にまで推し進めてしまった彼らのアイデアはユニークというしかないが、世界の構造はさておき、音楽において何かしらアプリオリ(先見的)な原理があるという発想は現代でも一定の影響力を持っている。それは必然的に世界音楽の普遍性というドグマに行き着くであろうし、また、楽理一般が成立する事情を知らず、それを一種の先見的原理とみなす、一部のナイーヴな音楽学習者に見られる硬直した姿勢に象徴されるだろう。
前述した原初の共感誕生の場面を思い起こしてみてもわかるように、音楽において「初めにあるのは」感覚であって理念ではない。感覚から理念が誕生するのだ。これは一見どうでも良いことのように思えるが、この考察全体の基本原理となるきわめて重要なポイントである。
というのも仮に、たとえ未知のものであるとしても、音楽一般を成立させる原理が存在するとすれば、音楽的価値を規定する一般基準も存在する可能性が生じ、この連載の第17回で否定した「ジャズには絶対的な価値基準がある」という、客観主義に支えられた「真理派」の立場を正当化してしまうからである。というか彼らはこの誤った認識によって誤った結論に到達するのである。
2+2が4であるというような数学的理念性は人間の存在の有無にかかわらず妥当だし、また自然科学の法則は人間の感覚と無関係に成立する。しかし感性的対象である音楽は、感覚における現象の記述を最優先する現象学的アプローチによってしかその実態に近づけない。
とはいえ、感覚なるものが理念性によって規定されていることもまた事実である。それは諸言語が諸民族の世界認識において決定的な規定性を発揮していることからも明らかだ。諸民族の民族音楽的価値習得の過程を想像してみても、楽器の発達、演奏技術の洗練に伴い「よき音」の基準が理念化する過程が必ず存在する。というかそうした理念化の過程を経なければ音楽的伝統、演奏技術の伝承は不可能だろう。
要するにその過程の一断面を切り取って眺めれば、あたかも連綿とした過去から「よき音」の理念形が存在したかのように人々に感じられることになる。しかしこれが錯覚であることは、現実の音楽自体が極めて緩やかな速度ではあっても変化していることからも証明できるであろう。
具体例を挙げるならば、いまや世界音楽を席巻しているがごとく見えるオクターヴ12音均等分割による平均律の秩序も、ヨーロッパにおける数百年にわたる「感性の変化」の結果として現存しているのであり、何がしかの先見的原理に従って「発見」されたものではない。
ともあれ、われわれに要請されているのは、こうした感覚と観念の複雑な相互浸透関係を、あせらずにじっくりと腰をすえて点検、検証することである。そしてその過程に現れる多様な音楽についての言語(評判、批評、楽理など)が、さまざまな音楽ジャンルにおける評価の基準にどのような影響を及ぼしているのか、あるいは及ぼしえないのか、といった問題を考察すれば、おのずと「ジャズ的価値観」なるものの実態に近づくことになるだろう。

*1:そもそも言語自体が、感覚可能なもの(コトバは耳で「聞く」ことができ、文字は目に「見え」る。すなわち、シニフィアン=能記、あるいは記号表現)と、思考可能なもの(「木」という言葉が発せられれば、目の前に木が現前せずともその対象を理解することが出来る。すなわち、シニフィエ=所記、あるいは記号内容)を、一気に、かつ無根拠に接着させてしまう作用のことなのだが……詳しくは前出、「ソシュールの思想」参照のこと