3月29日(土)
益子さんの「21世紀ジャズへのいくつかの補助線〜第4回・即興について」、非常に知的な刺激に満ちた優れた講演だった。益子さんは「現代ジャズのわかりにくさ」の理由の一つとして、ミュージシャン側(そしておそらく聴き手も)の感覚の変化をあげる。旧来のショーター・ファンから「わかりにくい」とされた、彼の2001年の作品『Footprints Live!』(Verve)における、ショーターのサイドマンたちに対する姿勢が、従来の「ジャズ」の発想と異なっているのではないか、と疑問を提示する。彼自身が積極的にソロをとらないで、むしろサイドマンたちの出方をうかがっているように聴こえるというのだ。
確かにその通りなのである。比較のために先にかけた、1970年のマイルス『Live At Filmore East』(Columbia)では、マイルスもショーターもふつうに「自己主張」しているが、「21世紀盤」では、ショーターが「場の空気」というか「サイドマンの出方」を「探っている」、あるいは「何がしかの気分を醸成しようとしている」ように聴こえる。似たような例をティム・バーンの21世紀盤でも指摘し、こうした「ポストモダン的変容」へと話を進める。
議論の前提として、モダンとは何かという問題を提起し、その起源を求めれば、デカルトからカントへといたるヨーロッパの「自己意識」「主体概念」に行き当たるとする。そしてその「自己意識」「主体概念」が、20世紀のある時期「変容」した結果が、「ポストモダン状況」の裏側にあるとする。以上は私なりの要約なので、益子さんの説明とはずれている可能性があるが、それは今後の議論にゆだねよう。
ともあれ、私はこうした益子さんの解説を聞いているうちに完全に「思考モード」に入ってしまった。というのも、ミュージシャンの自己意識と即興の関係は、私が長年考え続けてきたことなので、「どつぼ」にはまってしまったのである。それ以降は「考えつつ聴く」という、ちょっといけないパターンに陥り、いつもなら付けるレジュメへの演奏評価マークもほったらかし。
解説も選曲も全く問題なかったが、講演終了直後、私は直ちに益子さんとがっちり3時間ぐらいこの問題について対談したと思ったが、そうも行かず私なりのまとまりのない「感想」を披瀝したに留まったけれど、これはいずれ公開を前提にやるつもりだ。「目からウロコが落ちる」というが、今回は「目にウロコが付いている」ということ、そしてそのウロコの正体が垣間見えたという段階だ。しかし問題が問題だけにこれは凄いことで、お世辞抜きに近来まれに見る知的刺激に満ちた講演であったと思う。
夜自宅で、北里義之さんの「清水俊彦の犯罪」というタイトルの長い長い日記を読む。面白かった。ただちょっと気になったのは、引用発言に(後藤レポート)とだけ記され、発言者が明記されてない箇所が散見された。よく読めばそれが私の発言ではなく、私の報告であることはわかるのだが、流し読みすればカッコ内の発言自体が私のものと錯覚される可能性が無きにしも非ずと思った。JAZZ TOKYO掲載の「後藤レポート」を読んでいただければ問題ないが、今、簡単に読めない状態になっている。(単に、私が検索の仕方をわかってない可能性もあるけれど)北里さん、これ読んだらその辺りよろしくね。