think23

think.23

私的メモのつもりで思いつくまま書いてみよう。だから以前書いたことと重複するかもしれませんが、ご容赦。
私の理解では、音楽理論を含む感覚芸術の理論は、物理学の法則のように、人間がいてもいなくても成立するような普遍的性格のものではなく、もっぱら人の感覚に依存していると考えます。水は人がいてもいなくても高いところから低いところに流れてゆきますが、一般に音楽の理論といわれているものは、人間の聴覚という、非常に変化と融通性に富んだ曖昧な対象との相関において、特定の時代の、特定の文化共同体内でのみ成立する“聴覚の秩序の体系”で、それはおおむね経験的に、すなわち帰納的に導き出された、“とりあえずの規則の体系”に過ぎません。つまり、普遍性もなければ一般性もない(長唄とレゲエに共通するような聴覚の秩序の体系を私は思い浮かべることが出来ません)。
ですから、それはいつでも時代の感性の変化によって乗り越えられ、変容(ポストモダン・ジャズの問題はここに関わる可能性があると私は考える)させられてしまう性格のもので、その限りにおいて、常に、経済学の法則のように、「後付の理論」たることを宿命付けられているのではないでしょうか(私は経済学者の大金持ちを見たことがない、一時は良くてもたいがい大損しているようです)。またこのことは、スイング、ビバップ、モードといったジャズのスタイルの変化、そして、さまざまな美術の様式の多様性、時代による変化を見ても容易に推察できるのではないでしょうか。
では、なにが「先に」あるのかといえば、演奏者を含めた聴き手の聴覚です。聴き手の感性の秩序が、次の時代の「理論」を準備するであろうことを理解していれば、演奏をする必要のない聴き手は、取り立てて音楽理論を知る必要はないことになります。何故かといえば、理論は、演奏者を含めた聴き手の良しとする聴覚の秩序の「後から来た」経験則に過ぎないからです。
もっとも、この感性の秩序自体が、言語を媒介とした“理念(価値観)”(平均律の体系とか、ポップスの世界化現象)によって、あらかじめ規定されているという複雑な事情もあるのですが、、、つまりこのレベルでは、感覚的なものと理念的なものが相互依存というか、いわゆる弁証法的関係が成立するように見えるところがややこしい。
もちろん、演奏家を視野に入れた評論は、その時代の最先端の音楽理論を熟知している必要があるでしょう。しかし、ジャズに限れば、評論が先行した優れた演奏の実例を、私はあまり知りません。評論家にとっては残念なことなのかもしれませんが、ジャズは圧倒的に実作者優位のアートなのではないでしょうか。まあ、他の感覚芸術のジャンルも似たような状況なのかもしれませんが、よく事情を知らないので、そこまでは言い切れませんが。