Think,25

以下の論考は、林建紀さんが教えてくれた「朝日新聞」夕刊の連載インタビュー「人生の贈り物」での、中島誠之助氏の発言にヒントを得たものです。中島さんはTV「なんでも鑑定団」でお馴染みの、骨董目利きだ。発言要旨は、「骨董の故事来歴は知識であって、美術鑑賞とは別の世界である」「目利きとして見立てをしようと思ったら、感動する豊かな感性を養わなければいけない」「知識が土台になると偽物にひっかかる」といったもので、ジャズ鑑賞にも通じる話と感心した。
私は骨董のことはまったく素人だが、要するに、ある茶碗の価値を見立てる(鑑定する)とき、それがどこそこのいつの年代の物であるという事は知識であって、美術鑑賞の役には立たないばかりでなく、場合によっては偽物をつかまされかねないということだろう。それはちょっと考えれば容易に理解が付く。
たとえば、ある茶碗が名品との定評が生れたとする。すると当然、それはaという産地の、b時代の、cという技法を使った作品である、というような研究が出てくる。そして、今度はその研究成果から、a産のb時代のcは良いという定評が生れる。ここまではまあ自然な道筋だ。問題はそこから、aだから、b、cだから良いのだ、といった倒錯現象が起こることである。
落ち着いて考えてみれば、茶碗を価値あるものたらしめたとき、初めにあったのは茶碗を見立てた人の「これは美しい物だ」という感覚なのに、いつの間にか、aとかb、cといった、客観的な条件が美の基準にすり替わってしまっている。しかし人は人間の感覚のように外から確認できないものは信じず、産地や時代、技法といった客観的事実を信じがちなのである。だからダマされる。
このことをジャズに当てはめてみれば、パーカーの音楽の感動は、彼の演奏を聴いた人間の感覚において生じたにもかかわらず、演奏を分析し、研究し、そこから導き出された一般理論(らしきもの)を振りかざし、パーカーの素晴らしさは理論に則った演奏技法にこそ存在すると言っているようなことで、まさにこれは典型的な錯覚であり、倒錯現象なのだ。
パーカーの演奏技法を価値あるものたらしめたのは理論ではなく、彼の演奏を良しとする(パーカー自身を含む)人間の感覚であるのに、その簡単明瞭な事実体験が理解できないのである。骨董の産地、時代、技法に美の理由があるわけではないのと同じことだ。従って、理論が演奏の価値の理由であるというような説明の仕方は倒錯しており、間違っている。
骨董研究は美術鑑賞とは別の分野に属するように、パーカー研究はパーカーの音楽から感動を得ることとは別の分野の出来事なのである。私はよく知らないが、中島さんに言わせれば、骨董研究者は偽物を掴まされやすいそうだ。ジャズ研究者も気をつけたほうが良いだろう。