think.27

ジャズの楽しさ面白さ、そして感動を感じ取れる人とそうでない人がいる。このことを敷衍すれば、アート、芸術、美、と言われるような対象を理解できる人と、そうでない人がいる。この事実は私たちの周囲を見渡せば、経験的に理解できるだろう。
ここで大切なことは、アート一般を享受、理解できることが、エラいことでも優れたことでもないという、冷静な態度ではないだろうか。そもそも生活の中にそうしたものを求めていない人もいるだろう。そういう人たちのことを非難するいわれはないと思う。
私自身はジャズが好きだし、折に触れ絵を見たりもする。しかしそうした自分の趣向は、釣りを楽しんだりゴルフに興じる人たち、あるいはアニメに没頭するマニアと等価であると考える。
なぜ、わわざわざそんなことを言うかというと、世間には「芸術」に関心を持つことが何か「高尚」なことであるかのような思い込みがあるからだ。そしてその(無根拠な)価値観を暗黙の前提とした裏返しの感情が、芸術愛好者に対する「カッコつけちゃって」といった倒錯した揶揄になったりもする。どちらもバカバカしい。
以上は話のマクラで、言いたいことはここからだ。アートの価値を絶対視する(誤った)感情は、えてしてアートに対して理解のない人をバカにしてみたり、あるいは、無理やり啓蒙しようとする。しかし、もともとアートの素晴らしさを感じ取れない人や、そもそもそうしたものを求めていない人にとって、こうした「啓蒙」はメイワク以外の何物でもない。
ジャズ喫茶を経営し、ジャズ本を何冊も書いている人間の発言としては矛盾していると思われるかもしれないが、言っていることはホンネである。私は、ジャズに対しても、「来る者は拒まず、去るものは追わず」の姿勢を貫いているつもりだ。
たとえば、チャーリー・パーカーの音楽を私は大好きだが、そう思わない人がいても当然だと思う。それは個人の趣向、感受性の問題だからだ。ただ、ジャズを語る上で、パーカーの存在を否定するような言説に対しては、ジャズに関わる人間として、ジャズ史的なパーカーの意義を説明する。とは言え、それは、ジャズに対する「知識としての理解」を求めているだけで、パーカーの音楽のもたらす「音楽的感動」までも他人に対して求めているわけではない。
知識はロジックの対象となりうるので合理的に説明が出来るし、またそれを理解できない人は問題視されても致し方ないだろう。だが、感受性はロジックの対象ではないので合理的な説明は難しく、パーカーの音楽の素晴らしさを享受できるかどうかは各人の感受性にかかっている。
しかし、世の中には、熱心さのあまり、「音楽的感動」までも他人に求めようとする人がいる。それは、出来ることもあれば、出来ないこともある、という当たり前の結果をもたらす。その当然の結末に満足しない、より熱心な人は、感受性の問題にロジックを持ち込もうとする。
たとえば、パーカーの音楽が素晴らしいのは、客観的な理論的根拠がある、といった説明だ。気持ちはわかるが、単なる贔屓の引き倒しになっていることに本人は気が付かない。その他のアートについても、同じようなことが言えるのではないかと私は想像する。
付け加えれば、アート一般に対する感受性は、中島誠之助氏の言ではないけれど、良いものを見、良い音を聴く経験の積み重ねからしか生れない。そうそう、見巧者、聴き巧者といわれている人たちの話に耳を傾けるのも、大切だ。そして何よりも大事なのは、同じ趣向を持つ仲間たちとの、忌憚の無い意見交換だろう。私自身のジャズに対する感受性は、そうした先輩、友人たちとの40年に及ぶ、論争あり、共感ありのジャズ人生によって育まれたもので、何か特別の「理論」を理解したというようなことではない。