1月17日(土)
ヒジョーにまずい。朝日カルチャーセンター生徒さんの「ハンコックのピアノトリオ・アルバムを教えてください」という質問を「韓国のピアノトリオ・アルバムを教えてください」と聞き違え、「いやー、よく知らないんで」などとマヌケな返答をしてしまった。ボケ、難聴の始まりだ。
いささか落ち込んだ気分を一気にメジャー方向へ転換させてくれたのは、原田さんプレゼンツ、サム・リヴァースの想像以上の聴き応えだった。もちろんリヴァースは好きなミュージシャンで、『コントアース』『フューシャ・スイング・ソング』といった60年代ブルーノート新主流派的名盤は、いーぐる選曲リストの重要アイテムである。
しかし、70年代リヴァースの中には難解方面まっしぐら的アルバムもあり、ちょっと店でかけるのを躊躇したものだった。だが、それがまさに70年代の「時代の気分」(何しろフュージョン全盛期ですからねえ)だったことが判明。久しぶりに聴いた『コンファレンス・オブ・ザ・バード』(ECM)、『シズル』(Impulse)のコク、凄み、爽快感を大音量で全身に浴び、いまさらながらリヴァースという特異なミュージシャンの立ち位置にナットクすると同時に、優れたプレゼンター、原田さんの耳に感心する。やはり新春第1弾は原田さんの気合の入った特集で始まって正解だった。
まったく話は変わるが「スタジオ・ヴォイス」2月号に気になる記事が出ていた。あの清水靖晃の80年代の問題作『JAZZ・Live』(Better Days)のベース奏者、濱瀬元彦さんのインタビューで、知り合いである山下邦彦さんのことが剽窃者として語られているのだ。同記事によれば、「剽窃の疑いを具体的に感じたのは山下氏が出した『チック・コリアの音楽』(音楽之友社)に対してです。同書で語られているサブドミナントの浮遊性の議論は、リーマンの下方倍音列理論に対する僕の解釈を剽窃しているように、少なくとも僕には見えた。」(濱瀬さん談、同誌p.100)となっている。
昨年の清水俊彦氏剽窃の一件もあり、また、音楽理論家として有名な濱瀬さんと知り合いでもある山下さんとの間の問題であること、そして、両者のトラブルの内容が音楽理論に対する解釈に由来するらしいことなどが私の関心を引いたのだ。
最初に断っておけば、音楽理論に疎く詳細な事情を知らない私には、どちらの言い分が正しいのか判断する能力は無いので、剽窃の真偽についてはなんとも言いようがない。とは言え、「これはどうかなあ」、というところや、「それもそうだよね」という部分もあって、メモ的に書いておこうと思ったのだ。
「これはどうかなあ」というのは、インタビューアーの田口寛之氏が「〜山下さんが、著作の中で濱瀬さんの音楽理論を盗用しているというという件です。」(同誌p.100)と、読みようによっては、山下さんの「盗用」が誰もが認める既成事実であるかのような書き方をしているところだ。
ところが記事をよく読むと、濱瀬さんのコメントとして「〜その弁護士に相談しにいったんです。彼は僕の主張を聞き、両方の本を精読した上でこう言いました。「たぶん濱瀬さんの主張は正しいと思います。けれど、それを裁判官に理解させるのは無理だと思います」」(同誌p.101)となっているのだ。そこから濱瀬さんは「〜抗議の手段は民事裁判しかなくて、それさえ「裁判官が理解できない」という理由で実質上機能しない。」(同誌p.101)と嘆き、結局、司法による公的な判断は出ていないようなのだ。
「それもそうだよね」というのは、問題があまりに専門的になってしまうと裁判官が理解できず、司法による裁定機能が働きにくくなるという濱瀬さんの指摘である。しかし、この事実を別の視点から眺めれば、一個人をオフィシャルな判断なしで公刊された雑誌の誌面で剽窃者扱いすることの是非、という微妙な問題に繋がる。
とは言え、どちらにしろこれは、濱瀬さんと山下さんの理論家としてのプライドの問題ではないかと思うので、音楽理論に疎い私ごときが容喙すべきではないだろう。ただ私が興味を持ったのは、音楽理論の解釈に著作権のようなオリジナリティが存在するのだろうか? という、素朴な疑問なのだ。まあ、私にしたところで今のところこの件についてまとまった考えがあるわけではないので、とりあえずの覚え書きぐらいに思っていただければ幸いだ。もちろん、どちらの肩を持つという話ではないので、関係者各位においては誤解なきようあらかじめお断りしておきたいと思います。