5月18日(月)
com-postのジョシュア・レッドマンのクロスレビューで私が使った、「否定神学」という用語の評判がえらく悪いようだが、非常に説明するのが難しい対象を、「否定語」を積み重ねることによって何とか伝えようとする試みは、キリスト教神学特有のものではない。たとえば仏教における大乗論の初期の学僧、ナーガールジュナ(龍樹=南インドのバラモンの家系に生まれる、西暦150年から250年くらいの人と推定)の、『般若経』の空の哲学を論理的に解明した『中論』に
滅することなく、生ずることなく、断ずることなく、永遠でなく、同一でなく、別異でなく、くることもなく、ゆくこともないような、縁起(の意味)― それは人間的な理論を越えたもの、めでたきもの − を説いた仏陀、すなわち最高の説法者たる仏陀に敬礼する。
という、大乗仏教の中心概念である縁起が、そのまま空性であることの説明があるが、これは八つの否定形の積み重ねである。
ちなみにこの大乗仏教の「空性」という概念は、今頃になって実体概念に対抗する関係概念を先取りするものだ、などという論調まで現れている。まあ、構造主義言語学におけるシニフィアン(能記=記号表現)など、まさに「〜でない」もの(すなわち弁別可能なもの)の関係によって意味の網目を作り出すというのだから、けっこうこうした否定によって意味を生成しようとする発想法は、人間にとって普遍性を持っているのかもしれない。