6月12日(土)

今日の連続講演は、日本ポピュラー音楽学界で知り合い、現在は編集者である柴さんによる、『実験音楽とジャズ-2 〜 "ジャズ耳"の存在を浮かび上がらせる"即興演奏"』。この講演は今年の2月に行われた柴さんの講演『実験音楽とジャズ』ではからずも浮かび上がった“ジャズ耳”の存在に焦点を絞ったもの。
「ジャズ耳」とはなにか? これはジャズファン特有の感性の質に便宜上付けた用語で、前回の講演の際、ジャズファンの音楽的好みの傾向が、ジャズ以外の音楽を聴いた時に顕著に現れる現象に気がつかされたことが発端だ。
つまり、ジャズファンがジャズを聴いた場合は、意見が収斂すれば「当然の評価」、さまざまな意見が出ても「十人十色」ということになりがちだ。ところが面白いことに、前回の講演のように、実験音楽のかなり変わった音源、つまり大多数の音楽ファンが接したことのないような特異な音楽を聴くと、未知のジャンルなのにジャズファンの意見が集約されるようなのである。これはジャズの名演に対する「当然の評価」では説明できそうもない。
そうした事実を踏まえ、やはり実験音楽とされる音楽のうち、特に即興演奏に的を絞って同様の試みを行ったというわけである。結果はやはり興味深いものだった。前回ほど決定的とは言えないけれど、参加者の皆様方の嗜好傾向にうなずけるものがあるのである。
まず冒頭は、前回一番評判が悪かったジョン・ケージの作品から。柴さんは同じ曲目の、より初演に近い演奏と前回の演奏の比較試聴から始めた。面白い。前回の演奏はほんとうに機械的で退屈だったが、今回のバージョンは明らかに有機的で躍動感が感じられる。しかし、柴さんの解説を聞いて驚いた。ケージは演奏者同士が「息を合わせ」たりしないように望んでおり、そうした意味から言えば、機械的と評判が悪かった前回の演奏のほうがケージの作曲意図には近いようなのだ。ウーム。
ここで私からジャズファンとしては当然の疑問を柴さんにする。たとえばチャーリー・パーカーが《ナイト・アンド・デイ》を演奏したとしても、それをコール・ポーターの即興作品とは誰も言わない。しかるに「ケージの即興作品」と言うのはどういうことか? もちろんそれにはちゃんとしたわけがあって、「図形楽譜」という、ある程度演奏者の自由意志が尊重される楽譜に基づいた作品なので、「即興作品」というらしい。
それはその通りなのだろうけれど、やはりジャズファンの即興観とは少し違うような気もする。だってケージは演奏してないじゃないの。しかしこれは「文化」の違いなのだろう。
当日は「聴く」ことに比重が置かれた講演だったので、かけた音源は6曲と少なかったが、それが幸いし、じっくりと未知の世界を楽しませていただいた。個人的に気に入ったのは、Cornelius Cardewの“Treatise”と、David Tudor and Takehisa Kosugiによる“Rainforest Version 1”で、たまたまかもしれないけれど、最後に挙手で教えていただいた参加者の皆様方のお好みと見事に一致していた。
また、こうした音楽は微細な音のニュアンスが音楽の印象を大幅に変えるので、ある程度音質の良い装置で充分な音量で聴かないと、その良さが伝わらないと思った。ともあれ、異なった価値観で演奏される「即興作品」を固め打ちで聴くことによって、ジャズの即興の特異性が少し見えてきたような気がした。やはり、ジャンルを知るには、ジャンルを超えた聴取が必要なことを実感した。