7月24日(土)

もう400回をとっくに超える「いーぐる連続講演」、意外と思われるかもしれないが、毎回の参加人員統計はとっていない。理由は、集客数と講演内容の間に必ずしも相関関係があるとは言えないからだ。取り上げるテーマ、ミュージシャンの認知度によっては、あまりお客様が来なくても素晴らしい内容の講演がいくらでもあるからである。

今回の阿部さんの講演がまさにそれで、猛暑と、ジェームス・スポルディング知名度の低さのため、スタート時では客席はまだまばら。しかし、少しずつ遅れて参加されるお客様方を含め、途中退席者はほとんどいない。聴けば面白いのだ。というか、リーダー作がほとんど無いスポルディングの絶頂期をフォローするため、かけるアルバムは60年代ブルーノート。名義はウエイン・ショーター、ボビー・ハッチャーソン、マッコイ・タイナーデューク・ピアソンと、ファンご存知の面々。お聴きになれば、ああ、これかと納得の傑作ばかりなのである。

それなのになぜスポルディングのことをみなさんあまりご存知ないのか、その理由が今回良くわかった。まず、トミー・フラナガンのように「サイドで光る」という形容とはちょっと違うスタンスで個性的なのだ。

たとえば、講演ではフルートのナンバーが紹介されたが、個人的愛聴盤であるショーターの『スキゾフェレーニア』(Blue Note)など、3管のアルトが仮にマクリーンだったら、まったくアルバムの印象が変わっていたことだろう。スポルディングの、ちょっとファナティックで微妙に音程をコントロールしたサウンドが、ショーターのオカルトチックな雰囲気にピッタリなのである。それはテーマの印象的アンサンブルでも発揮され、そしてもちろんソロでもショータームードにジャストフィットなのだ。ただ問題はフィットしすぎて、スポルディングならではの良さが「意識に登りにくい」のである。

また、彼はフルートの名手でもあり、有名なデューク・ピアソンの『スイート・ハニー・ビー』(Blue Not)など、フルートで演奏されるテーマ・メロディがあのアルバムのイメージを決定的にしているが、それがスポルディングであることは、あまり意識されない。この辺りは職人ワザに徹している。

かといってソロが凡庸ということなどまったく無く、ショーターの『スースセイヤー』(Blue Note)の気合十分のソロや、フレディ・ハバードの『ザ・ナイト・アット・ザ・クッカーズ第1集』(Blue Note)での、リー・モーガンとの火の出るようなソロの応酬など、文句なしの名演と言っていい。なぜリーダー作が無かったのか不思議としか言いようが無い。阿部さんの話によると、ポップスものをやらないかとライオンに持ちかけられ、断ったそうだが、まあ、致し方ないところだろう。ともあれ、今後は、後ほど掲載する講演選曲リストのブルーノート傑作の数々を、スポルディングに焦点を当ててお聴きになってはいかがだろう。きっと彼のファンが急増することだろう。

ところで今回の講演、このところ個人的に考えていたことに対するヒントがずいぶん見つかった。それは、私たちは音楽を「意味として」受け取っており、その「音楽的意味」は、視点により移動するという、com-post上での議論を実証しているようにも思えたのである。

また、これは偶然だが、com-post「往復書簡」に、「進行役」として新たに益子さん、相澤さん、そして私との「交通整理役」を買ってくれることになった宮坂さんの提言を、ある部分で実証するようにも思えたのである。その提言とは、マイケル・ポランニーの『暗黙知の次元』(紀伊国屋書店刊)のアイデアを音楽評論に援用してはどうかというもので、たまたま私も同著を読みかけており、それを再読した翌日にこの講演があったというわけなのである。

ポランニーの「暗黙知」の概念を簡略化すれば、私たちは意識に登らない「非言語的な知」を持っており、それによってさまざまな対象を認知しているということにでもなるだろう。

この話と今回の講演の接点を具体的に示すと、ショーターの『スキゾフェレーニア』や『スースセイヤー』を、ショーター・ミュージック“として”聴いている時は、スポルディングの活躍は意識に登りにくいが、改めてスポルディングに注目すると、彼の個性的アルト・サウンドが、それこそ反転した「ルビンの杯」のようにクッキリと浮かび上がってくるのである。しかし音楽は「反転図形」のように両者(向かい合う顔と杯)のどちらかしか視えない(聴こえない)ということは無く、「視点の移動の体験」は、より音楽の聴取を重層的かつ豊かなものにする。「ジャズ耳」は常に進化の可能性を秘めているのである。