8月14日(土)

今日の須藤さんによるフュージョン特集、私の長年にわたるフュージョン、およびフュージョンファンに対する「偏見」を粉砕する画期的なものだった。そもそも私がこの企画を須藤さんにお願いした時の心つもりは、ヒドい話だけど「どうせお盆でヒマだろうから、ふだん出来ない企画で楽しもう」という、かなり安直なものだった。

つまり、もう何年も聴いていない「懐かしの」フュージョンを聴いて、みんなでリラックスしようという算段だ。もちろん冷静な計算もあって、「今の時点」で聴いたら「あの時代の音」はどう聴こえるだろうという実験の意味合いもある。それが須藤さんの気合の入った選曲で、いい意味で「裏切られた」のだった。

想像通りダメだったのは、冒頭のシャカタク『ナイトバード』だけで、しかしこの選曲は「懐かし路線の確認」という意味で、私が須藤さんに強要したもの。それ以外はすべて、「こういうフュージョンもあったんだ」という再認識であり、「フュージョンのこういう“聴き方”もあるんだ」という発見でもあった。それはすなわち「耳の良いフュージョンファンもいる」という「聴き手」に対する「偏見」の払拭にも繋がったのである。

つまり須藤さんは、フュージョンを「快適なリズムを聴く音楽」として捉え、その視点で選曲しているのだ。そしてその結果選ばれた演奏は、すべて今の時点で聴いても充分に楽しめるのである。その証拠に、2時間にわたる「大フュージョン大会」にもかかわらず、どちらかと言うとアンチフュージョン派である私が、最後まで飽きなかった。

しかしそれは須藤さんの冷静な「計算」と、まっとうな「耳」の賜物で、私が「知っている」いわゆる「フュージョン」は、決してこんな上等なものばかりではなく、また、当時のフュージョンファンの大半は、極めて表層的にしかフュージョンを聴いていなかったと思う。

具体的に言えば、彼らは《ナイトバード》に象徴される「甘い旋律」でしかフュージョンを捉えていず、当然そうしたファン層はコアなジャズマニアとは音楽の「聴き方」が違い、そのこと自体は別に何の問題も無いのだけど、そうした「耳の違う層」が、自らの「耳の違いを自覚せず」ジャズに対してあれこれ言うことが、根っからのジャズファンの神経を逆なでしたということはあったと思う。

だが中には須藤さんのように、フュージョンの限界と聴き所を直感的に理解し、一番「オイシイ」所を楽しむクレバーな人たちも居たということを、私は40年目にして理解したのだ。とは言え、こうした方々は極めて少数派だと思う。

以下は個人的感想だが、やはりソロイストとして傑出しているのはデヴィッド・サンボーンマイケル・ブレッカーで、しかしその優れている所以は、いわゆる「ジャズのソロ」としての評価とまったく同じなのである。このことを裏返せば、フュージョンを従来のジャズを聴くようにして個人のソロに注目しても、満足できるミュージシャンは極めて少ないということになる。

しかし、「リズムに注目する聴き方」はジャズの王道でもあり、それを「発見」した須藤さんは、ジャズとジャズに隣接した音楽であるフュージョンの関係を直感的に掴んでいるということでもある。こうしたクールな「対象との距離感」は非常に大切で、一ファンならまったく問題とならない「対象との癒着」は、その音楽の良さを人に伝える立場に立った時、大きな障害となりがちなのである。その理由は、距離感の無い発言は、すなわち仲間内の評価にしか繋がらないと言うことである。

要するに、何に対しても評価軸は一つだけではなく、それを見る人間の「視点」によって、いくらでも対象の「意味」「価値」は変容するのだけど、そのうちもっとも「豊かな意味」を見出すことが出来た人間は、対象の素晴らしさ他人に伝えることにおいても、優れていると言うことなのである。

具体的にいえば、フュージョンを視る視点として「旋律」「ソロ」「アレンジ」「リズム」などさまざまなものがあり、それらをどのようなバランスで評価するかによって、選ばれてくる対象は千差万別となりうるが、そのうちもっとも豊かな一覧を作りあげ、それと同時に、その対象群を巧みに語ることばを見出すことが出来れば、それは優れた評論となりうるということである。そしてそれを須藤さんはやってくれた。

今後はその成果を土台として、マイルス・スクール人脈とフュージョンの関係や、フュージョンECMとの関係など、須藤さんにお願いしたい講演アイデアはいくらでもある。気長に取り組んでいただきたいと思う。

最後に、今com-postの往復書簡がらみでいろいろと音楽について考えていることに対する糸口になるかもしれないことを、メモ的に書いておく。まず、人は旋律の記憶は割合正確だが、リズムの細部について記憶することは難しいのではないか。また、同じ聴覚に属する知覚でも、旋律を担う部分とリズムを把握する部分では、異なった構造を持っているのではないか。まあ、当たっているかどうかはなんとも言えないが、今回の講演は、こうした音楽を聴くことについての原理的なことを考えるきっかけを作ってくれたという意味でも、私にとっては非常に有意義な体験であった。須藤さん、ありがとう!