think.30

2008年の9月17日にthin.29-1を書いて以来、もう2年が過ぎてしまった。中断の理由は、議論の場がcom-postの『往復書簡』に移行したこともあるが、「いーぐる掲示板」と同じように、ごく一部の読者は私の議論に対する賛否以前に、(当方の説明不足もあったのかとも思うが)論旨自体を理解せず、彼らのかたくななコメントに対する返答に、非常に苦労したということもある。私の言い分を理解したうえでのまっとうな反論は、それによってこちらの認識不足、誤りが修正される可能性に通じ、大いに歓迎なのだが、文章読解能力を欠いた方々との応酬は不毛に過ぎない。

しかし、このところ「いーぐる掲示板」における攝津さん、shiriaさん、明星さん、エシディシさん、桜吹雪さん、見物人さんといった方々の、大いに共感できると同時に、論理的かつ説得力のある書き込みを読み、thinkを再開しても大丈夫かなという感触を持ち始めた。端的に言って、こうした議論はある意味で対話であり、有効な対話相手が見つかるかどうかが議論の有効性の鍵となる。つまり、私自身、論旨の全面的な正当性など保証のしようも無く、まっとうな読者との対話を通して、より妥当な見地に一歩一歩進むだけなのである。

連続性という見地から言えば、中断したthink.29の続きから書き始めるべきだろうが、過去の問題はいずれ再検討することとしてthink.30とすることにする。前記、攝津さんはじめ、まっとうな文章読解能力のある方々が「いーぐる掲示板」に登場されたのは、星野さん問題に端を発する「不毛な議論」を見るに見かねてのことだと思うので、取っ掛かりはそこからにしよう。

thinkを遡っていただければお分かりかと思うが、音楽における「普遍論争」は私にとってはすでに解決済みの問題で、「なんでこんなことが21世紀にもなって問題になるんだ」という当惑しかなかった。とは言え、「いーぐる掲示板」での議論では、大いに啓発される話がいくつも出てきたので、結果オーライというのが正直な感想である。

「いーぐる掲示板」での応酬はあまりにもスピードが速く、すべてのテーマに追いつけないのが実情だった。だから、そこでコメントを逸した問題から書いて見よう。

まず明星一平さんが、行過ぎた相対主義に対する懸念を表明された。これはその通りで、ジャンル間のヒエラルキーはないとしても、ジャンル内部のヒエラルキーもないとなれば、それは行き過ぎであるのは当然だと思う。とは言え、その件に言及された攝津さんにしても、ジャンル内部のヒエラルキー否定などしていない。まあ、これは常識的な判断だろう。

次いで一番大きな問題だと思ったのは、攝津さんが「認識の切断面」といったフーコー的な問題はもっと長いスパンで考えるべきで、たかだか100年を越したに過ぎないジャズ史を、そうした問題設定で考えることの妥当性に疑問を呈したことだ。もっとも攝津さんも、それ以前の西欧音楽史との関連で、ジャズの出現自体を「全音楽史」の中でどう見るかという視点の可能性には言及していたように思う。

実を言うと、このジャズ史におけるフーコー的問題は「ポスト・モダン・ジャズ論議」に形を変え、com-post「往復書簡」での主要テーマであったのだが、議論の本筋にたどり着く道中で頓挫しているのが実情である。これも私自身の力不足に原因があると思っている。

それはさておき、具体的問題としての「現代ジャズのわかりにくさ」また、立場上言いにくいのだが、明らかなジャズのパワー低下として現れている「ポスト・モダン・ジャズ論議」は、どのような形であれ早急に再開される必要があるだろう。

2年ぶりのthinkなので、初回はあまり飛ばさず、これぐらいとしておく。ところで「ひょうたんから駒」的に巻き起こった「いーぐる掲示板」の活況だが、驚いたのは攝津さんをはじめとした優れた潜在的書き手の出現と同時に、そこでの議論が近刊予定の拙著『ジャズ耳の鍛え方』(NTT出版)の内容とかなり重なっていることだった。

事前にはちょっと高踏的に過ぎるかなとも思ったのだが、『ジャズ耳の鍛え方』はthinkでの議論の具体的展開でもある。もちろんそれは議論のための議論ではなく、「ジャズ耳鍛錬」=効率的ジャズの楽しみ方に通じるという、私自身の実体験に基づいているにしても、次著のテーマが思いのほか多くのジャズファンの関心領域と重なっているようなので、大いに安心していることは表明しておくべきだろう。

『ジャズ耳の鍛え方』の詳しい内容は、近日中にこのブログにてお知らせいたします。