think. 34 【中山康樹擁護と、“黒い耳”“白い耳”の話】

むしろこれからが本筋なのである。原さんは言う。確かに一部のヒップホップ関係者からは、中山さんの著著について重箱の隅を楊枝で突くような批判がなされているが、むしろそうした声に対しては中山さんを擁護したい。理由は、細部についての見解の相違はあっても、中山さんの提起したスケールの大きい問題意識は重要であり、それに対して(蛸壺的と言うかオタッキーな視点からの)揚げ足取りみたいなことをしていては、問題の所在が見え難くなってしまう。というのである。

私もこの点については大いに同感で、中山著書の細部についての違和感はあっても、こうしたジャンル横断的な問題を提起したこと自体は大いに評価すべきだと思う。

たぶんこうした話の中で、どちらが言い出したとも無く『黒耳』『白耳』という言い回しが出て来たのだと思う。ずいぶんバックグラウンドが異なっているように思えた(実はそれほどでもなかったのだけど)原さんと私が、たまたまカニエ・ウェスト、そして彼との関わりにおけるマイルス・デイヴィスに対する見方が似ているのは、単に好みが似ているとも言えるのかもしれないけれど、そこに至る二人のさまざまな音楽体験や、それぞれの音楽に対する評価の傾向を勘案すると、どうやら共に「黒い」音楽が好きであり、そうした人間たちが共通して持つ『黒い耳』というものがあるらしく、同じように『白い耳』というものが、『ジャズ耳』や『ロック耳』、そして『クラシック耳』あるいは『ワールド・ミュージック耳』と重なり合うようにして存在するのではなかろうか、という実に魅力的な仮説なのだ。

これは大いにうなずける。というのも、今年一年を振り返ってみても、私自身今まであまり知識の無かったラテン、カリブ地域の音楽に惹かれるのも、そうした音楽の中に見出されるリズミックな要素、つまりはごくごく大雑把に「黒っぽい」と言われる要素に対してであったからだ(もちろん、それだけではないけれど)。

私が前著『ジャズ耳の鍛え方』(NTT出版)で主張したかったことのひとつに、さまざまな音楽ジャンルにはそのジャンル固有の価価観、価値体系があり、それらは必ずしも普遍性を持ってはいない。従って、ある特定の音楽ジャンルを評価するには、一度その音楽ジャンル固有の価値の体系に中に参入する必要があるということだった。

そうした価値観を現すひとつの言い回しとして『ジャズ耳』という用語を提起し、ジャズの評価軸は「ジャズ耳」を持ってしなければ見当外れともなりかねないこと、そして「ジャズ耳」は、あたかもスポーツの練習や語学習得のように、適切な身体訓練によって誰でも身に付けられるという主張も盛り込まれていた。

こうした発想の根拠として、人が絵画や音楽といった“感覚芸術”を享受する際(翻訳も含め、“言語”が介在する文学はちょっと事情が違うように思う)、それぞれ固有の文化体系によって刷り込まれた、本人が意識することの無い、無意識レベルでの“感性の秩序”というものを想定している。要するに、感覚芸術(必ずしも“芸術作品”である必要はなく、“大衆音楽”と言われているものや“娯楽映画”もまた同様である)の価値基準の、暗黙の前提、それ自体を検証しようということだ。

そうした(絵画を含む感覚芸術のひとつである)音楽評価の、無自覚な前提として機能してしまう「感受性自体の傾向」には、「ジャズ耳」や「ロック耳」といったジャンル別の価値観と並存し重なるようにして、いわゆる黒人音楽的な要素に惹かれる人間がいるが(それがたまたま原さんであり私なのだが)、その人たちを『黒耳』の持ち主であると、どちらとも無く酒の席で命名したとたんに、見えてきたものがあった(これが2枚めのウロコ)。

まず『黒耳』同士の音楽評価は比較的ズレが少ないようなのだ。そこでふつうは単に「オレたち気が合うね」であるとか、あるいはもっとずうずうしくなると「やっぱり僕らの感覚が正しいんだよね」みたいな夜郎自大に陥りかねないのだが、そこはそれオトナの原さんのこと、そんなバカなことはおっしゃらない。

当然『黒耳』があるならば『白耳』もあるはずで、おそらく中山さんは傾向として『白耳』の持ち主なのではなかろうかという想定に行き着いた。『白耳』からのジャズ観、ヒップホップ観というものも当然ありうるわけで、そのよって立つ視点(感受性の傾向)の違いが異なる評価を生み出すのではないかというのだ。まあ、この結論についてはどちらが言い出したというわけでもなく、なんとなくそうなんじゃなかろうかというレベルではあるのだけど・・・

言うまでもないが、『黒耳』『白耳』のどちらが正しいというような話ではない。ただ、こういうことは言えるのではないだろうか。明らかに黒人的要素が大部分を占める音楽(たとえばソウル・ミュージック)を、『白耳』的感受性でああだこうだ言ってもあまり意味はないだろう。これは『クラシック耳』からのジャズ批判が見当はずれとなってしまいがちなことと似ている(まさに、かつて健筆を振るわれた鍵谷先生がそうだったし、ジョン・ケージのジャズ即興批判などにも、似たものを感じる)。

では、ジャズはどうか。もちろんジャズは黒人音楽ではあるけれど、ふつうの人が想像する以上に白人的要素が混入している。それは、ビル・エヴァンススタン・ゲッツリー・コニッツ、レニ・トリスターノ、ギル・エヴァンスといった優れた白人ジャズ・ミュージシャンたちの存在が端的に証明している。しかし現在に至るジャズ評論の暗黙の前提として、それこそ『黒耳』的評価基準こそが正しいとされていることに対する苛立ちが、中山さんをして、あえてポレミックな立場に立たせている動機なのではないかと推測する。

近年の中山さんの著書に見られる、ジャズ、ロック、ポップス(あるいは、大戦時の亡命クラシック作曲家たちの存在)に広くまたがる西海岸音楽シーンの見直しなども、そうした発想の表れなのではなかろうか。つまり『黒耳』に偏りすぎたジャズ観に対する見直しが、たとえば『黒と白のジャズ史』(平凡社刊)などの隠れたモチーフなのではないかと推察する。

ところでヒップホップである。ジャズは自分の専門領域なので、その「黒さ加減」「白さ加減」については身体でわかるけれど、ヒップホップについては、少なくともジャズよりは黒いんじゃないか、ぐらいしか今の段階では言えそうもない。

だとすると、相対的『白耳』からのジャズ史見直しにはそれなりの効用が期待できるが、『白耳』が聴くヒップホップはどうなんだろう、という疑問が生じてくる。というか、まさにそのところで私と原さんの意見が一致したわけだが、それについては当の中山さんは(5回の「学習会」での私を含めたゲスト、聴衆らの感触から)とっくに承知していたのだろう。

前述した『ジャズ・ヒップホップ・マイルス』刊行記念イヴェントの冒頭で、この本に対するさまざまな意見があるけれど、原田和典さんを除くほとんどの人が「誤読」していると中山さんは指摘した。そして、大多数の人はこの本を「ヒップホップの本」とカン違いしているけれど、これは「ジャズについて書いた本」なのだ、と宣言したのである。

まあ、私や、今年1年間中山さん主催の『ジャズ・ヒップホップ学習会』にすべて参加したいっきさんなどは、当然中山さんが繰り返し主張していた「学習会」の主要なテーマ、「現代のジャズがヒップホップなのだ」あるいは、「ジャズの優れた部分は今ヒップホップに受け継がれている」という論旨を、著書として展開したのが『ジャズ・ヒップホップ・マイルス』だと思い込んでいたので、なんか「学習会」と話が違うなあ、と違和を感じたのだが、実は「学習会」と著書とは関係ないものと考えれば、それなりの納得はある。

いっきさんがイヴェント当日、あらかじめ用意していたさまざまな疑問を中山さんに質問しなかったのは、「なんだ、そうなのか」といういっきさんなりの感触があったからなのだろう。そして私もその件については、いっきさんと同様の思いだった。

まったくの余談ではあるけれど、たまたま必要があって相倉久人氏の論考を再編集した名著『相倉久人の超ジャズ論集成 〜 ジャズは死んだか!?』(山下洋輔編・音楽出版社刊)を読み直していたら、今更ながら「語られるべきことはすでに言われちゃっているんだなあ」という名著に共通した思いと共に、中山さんの著作は相倉さんが1960年代に提起した問題に対する、半世紀後の回答のようにも読めるなあという不思議な感慨を持ったのである。

このことを中山さんに尋ねてみたら、まったく意識していなかったという。ありうることだ。ほんとうにものごとを突き詰めて考える人間たちは、自ずと同じ問題意識に行き当たるものだ。で、個人的に興味があるのは、中山さんの現在の問題意識は、(想像ではあるけれど)前述したように「白い目線」からのジャズ史再読であると同時に、既成のジャズ観の大きな壁でもある、油井史観への挑戦という側面も持っている(これはご本人から聞いた)。

そのことと、相倉さんの60年代の問題意識と中山さんの近著の部分的類似(言及しているミュージシャンがかなりかぶっている)の間に何かしら関係があるのだろうか。また、これも「感想」のレベルに過ぎないのだけど、ご存知のように、相倉さんは1960年代にジャズの現場でミュージシャンに寄り添いつつ活発に活動すると同時に、鋭い視点からのジャズ評論を発表しておられたが、70年代以降は関心領域がロックへ移行してしまった。そして、中山さんは誰もが知るマイルス・フリークであり、日本を代表したジャズ雑誌の編集長を務めた方だけれど、同時に自ら熱烈なロックファンであることを表明し、極めてコアなロック評論の数々も上梓されている。

一方、ジャズ評論界の大御所、油井正一先生は、エレクトリック・マイルスにはあまり好意的な反応をお示しにならなかったようだし、また、ファンク・ミュージックを含むロック一般に言及したこともあまりないように記憶している。こうした一連の事象を、『黒耳』『白耳』という新たなキーワードから眺めてみたら、いったい何が見えてくるのだろう・・・(そういえば中山さんも、大物ではあってもジェームス・ブラウンのようなタイプのミュージシャンについては、あまり発言していなかったような気もするのだが・・・)

まあ、酒席での出来事が発端の話なのでかなり大雑把なところはあるけれど、こうした何気ないところから見えてくるものは大事にしたい。次回は、たまたまの用語『黒耳・白耳』の内実をもう少し詳しく検討すると同時に、ジャズ評論界の大先輩、相倉氏、油井氏、そして中山さんの「耳の色」は果たしていかなるものか?

あるいは、黒と白があるなら黄色や褐色もあるのではなかろうか、などなど、思いつくままthinkならぬ“雑談”を少しばかり続けてみようと思う。

2011/12/29記