think. 35 【いっきさんの「いーぐる掲示板」への書き込みに対する感想】

think. 34の私の意見に対するいっきさんの見解が「いーぐる掲示板」に書き込まれたので、それに寄り添う形で雑感を述べてみたい。ちなみに、「いっき」というのはブログ上の名前で、私とは個人的に付き合いがあり、彼はまた中山さんの「学習会」にはすべて参加された中山ファンでもある。

いっきさんのご意見を私なりに要約すると、まず、当初中山さんの「ヒップホップによるジャズ史見直し」の試みは、マッドリブに象徴されるヒップホップの「黒さ」がいいとする(「学習会」における)中山さんの発言から、『黒耳』による再読かと思ったが、いろいろな状況を考えてみると、『白耳』による再読と受け取った方がおさまりがいいと感じられたそうだ。

これは、私のthink. 34の見方に同意していただいたということで、たいへんありがたく思っている。また、いっきさんはご自分の意見としてはこうも述べられている

「私は中山さんの批評性(メッセージ性)によるジャズ史(ヒップホップ史?)の見直しというのは、文学的(≒批評性)にジャズ史(ヒップホップ史?)を見直すことだと解釈した。」

この部分は、お互いに5回の「学習会」に参加し、中山さんの『ジャズ・ヒップホップ・マイルス』(NTT出版)を読み、また、個人的にこの件についていっきさんと語り合った私にはおおよその感じは掴めるけれど、そうした事情を知らない方々にはちょっとわかりにくいかとも思うので、説明を兼ねて私の感じたところを書いてみよう。

まず、「批評性による見直し」というのは、中山さんが「ヒップホップが現代のジャズなのだ」、あるいは「ジャズのもっとも優れた部分が、今ヒップホップに継承されている」という、必ずしもわかりやすくはない主張の根拠として挙げた、ジャズとヒップホップに共通する、アメリカ社会に対する「批評的なスタンス」のことを言っているのだと思う。

つまり、中山さんが、チャールス・ミンガスや、マックス・ローチらの人種差別を非難するメッセージ色の強いジャズと、ラップなどに見られるヒップホップの社会に対する反抗的スタンスの間に「批評性」というキーワードで繋がりを見ているということで、必ずしも中山さん自身が「批評的にジャズ史を再読している」、という意味ではないように読める(あるいは、そうしたニュアンスもいっきさんは含ませていたのかもしれないが・・・)。

それは、「批評性」のあとに(メッセージ性)と記されていることからも想像できる。厳密に言えば、「批評性」と「メッセージ性」では意味合いが違ってくるのだが、「掲示板」という限定された場では、細かいニュアンスが伝わりにくいのは致し方ないだろう(まあ、その誤解を解くためにこれを書いてもいるのだが・・・)。

次いで「ジャズ史(ヒップホップ史?)」と、ヒップホップ史の後に「?マーク」が付いているのは、ジャズ史とヒップホップの歴史を重ね合わせようと試みる中山さんの主張に対する、いっきさんの疑問を現しているようにも読める。そしてこの疑問は、私を含め、5回の「学習会」に参加されたお客様方の多くが感じたことを代弁していると言っていいのではなかろうか(だから、いっきさんがその疑問に対する回答を『ジャズ・ヒップホップ・マイルス』に求めたのは、ごく自然な成り行きでもあったのだと思う)。

また、後日同じ掲示板に、いっきさんご自身が「文学的」ということば使いのあいまいさを反省されていたと思うが、確かにこの部分、つまり「文学的(≒批評性)」という言い回しは、いささか問題だと思う。いくらイコールではなくニア・イコールだと言っても、「文学的」ということと「批評性」という概念の間には見過ごせない違いがあって、これは誤解されても仕方ない。

余談ながら、かつて柄谷行人が「文学」と「文学的」の違いに言及し、前者にはそれなりの価値を認めることが出来るが、後者はたった一文字「的」が加わっただけだが、前者と同列には論じられないというようなことを言っていたように記憶する。これにはまったく同感で、私も柄谷氏ほど深く理解しているとはとうてい言えないけれど、両者は似て非なるものと思っている。

これと少しばかり似た構図の問題として、蓮見重彦も「芸術」あるいは「芸術家」についての嫌味に満ちた名著『凡庸な芸術家の肖像』(ちくま学芸文庫)で、執拗に世間に流通する通俗的芸術理解を揶揄していたものだ。

これらは思い切り乱暴に要約すれば「スノッブ批判」ということにでもなろうか。とは言え、文学作品やら音楽、美術など、「芸術」という実に曖昧模糊とした概念と隣接して論じられることの多い領域において、いわゆる「スノッブ」の存在は、極論すれば「必要悪」みたいなところもあり(まあ、個人的には「悪」とすら思ってはいないけれど・・・)、彼ら彼女たちを抜きにした「アート」議論は成立しない。

このあたりの話(アートとスノッブの関係)はいずれ別項で展開してみようかとも思っているが、話を本筋に戻すと、私などは「文学的」という言い回しに対して、字義通りの意味はさておき、コノテーション(随伴的意味)としては、どちらかというとネガティヴな印象しかもってはいない(もっとも最近、その優れた例外のような「文学的ジャズ評論」の実例に出会ったのだが・・・)。

という少々回りくどい前置きをしておいて話を元に戻すと、いっきさんはもちろん悪しき意味合い(たとえば「机上の空論」的など)で中山さんの著書を「文学的」と評したわけではないと思うが、それにしても「文学的」という形容はこの著書に対するものとしてはちょっと違うように思う。というか、中山さんが目指しているのはむしろ「悪しき文学的ジャズ評論」を避け、事実の積み重ねによる「実証的ジャズ評論」なのだと思う。

とは言え、いっきさんもまったく何の考えもなくこうした言い方をしたわけでもないことは、続くいっきさんの次の文章を読むことによって、そのおおよその意図が分かる。

「で、それに違和感を感じているところで、『文化系のためのヒップホップ入門』を読んで、なるほど、文学的(≒文化系)な解釈でヒップホップは捉えきれないと思って納得したわけです。」

つまり、曖昧である事を自覚しつつも、あえて「文学的」と形容したのは、このことばと「文化系」をニア・イコールで結び付けたいがためのことだったのだろう。そしてこの「三段論法」はいっきさんの次の段落で結論を向かえる。

「じゃあどう解釈すれば良いかというと身体的(≒体育会系)な解釈をすればしっくりくるわけで、そうすることで広い範囲が見渡せるとも思いました。同様なことはジャズいついても言えると思います。」

途中の些細なことば使いによる問題点はさておき、この結論に至るいっきさんの「話全体の見通し」は実に的確で、私もまったく同感である。もっとも「掲示板」ではこの後、いっきさんは中山さんの「文学的見方」(私の理解によれば、単にここは「文化系的」というべきなのだが)を否定しているわけではなく、「それもあり」と言いつつ「視野が狭い」と感じていると言う。

この件については、私が「掲示板」でいっきさんに対して、必ずしも「視野が狭い」とは言えないんじゃないかと疑問を呈したところ、いっきさんもその部分については「反省」してくれたようだ。

ところで、長々といっきさんのコメントについて書いてきたのは、前回の原さんとの「雑談」もそうだけど、「会話」が私のものの考え方に大きな影響を与え、良い方向に発想を導いてくれることを書きたかったからである。

具体的に言えば、「文化系 vs 体育会系」という対立軸は、まさに≒ではあるけれど「(一般ファンの意見を含む)批評のことば vs ストリートの実感」という、あまり言及されたことの無い問題に繋がるように思えるからだ(実はこの話題は『文化系のためのヒップホップ入門』についての感想という形で、原さんとも語り合った)。

掲示板」でのいっきさんの書き込みには、これ以外にも非常に興味深いというか、ことの本質を突いた鋭い発言があるのだが、それは次回以降順次ご紹介しつつ、そこから私の個人的関心領域へと話を展開できればと思っている。

2012/01/09記(次回予告【アートとスノッブ】または【悪しき文学的ジャズ批評と、好ましい文学的ジャズ批評の実例】あるいは【批評のことばとストリートのリアル】など)