1月26日(木)

中山康樹さんの新刊『かんちがい音楽評論〜ジャズ編』(彩流社)が各所で話題を呼んでいる。私がcom-postに書いた大西順子バロック』(Blue Note)のレビューが取り上げられたりしており、ひとことコメントしておくべきだろう。

具体的な内容については特に異論は無く、ごくまっとうだと思う。ただ、一般的なジャズファンと、私たちのように、ジャズとジャズファンの間に位置する人間では、微妙に受け取り方が違ってくるタイプの読み物だとは思った。

皆さんご存知のこととは思うけれど、私と中山さんは個人的知り合いでもある。だから「仲間褒め」と思われる向きもあるだろうが、それはそれで仕方ない。その上で言えば、やはり中山さんは「最後のジャズ評論家」だとつくづく思った。

このところジャズ業界(音楽業界全体に敷衍できるのかもしれないが・・・)では「評論無用論」が幅を利かせているようだが、良く考えてみれば、そもそも「評論」の名に値するような文章が音楽雑誌から姿を消してからもうずいぶんと経っている(一般誌、文芸誌などでは、時折優れた読み物に出会えるのだが・・・)。つまり、もともと無かったものを「無用」と言っても意味がないとも言えるのだ。

これは本書で中山さんがいみじくも語っているように、ライナーノートや雑誌という媒体の性質上、最初から肯定的に書くことを運命付けられているような文章に、批評性などあろうはずも無い。

結局、ジャズ界で批評性のある文章を発表するには単行本しかなく、多くのファンが「ジャズ評論家」と信じて疑わない「ジャズ(音楽)雑誌レビューアー」の書いているものは、そもそも初めから「批評」足り得ないことを運命付けられている。

こうした「業界メカニズム」を知り尽くした中山さんは、単行本という自由な媒体で自らの音楽評論を次々と発表している。この姿勢は「評論家予備軍」は心して学ぶべきなのだが、どうもそのあたりがうまく機能していない。今年還暦をお迎えになる中山さん以降の世代が思うように育っていないのだ。

もちろん優れた感覚、体験、文章力を持つ書き手はいくらでもいるのだが、今回の中山さんの著書のような「あえて火中の栗を拾う」体の「過激な」発言は、雑誌では封印されている。結果、中山さんが「最後のジャズ評論家」となってしまっているのだ。

中山さんだってこういった状況をよしとしているわけは無く、ある意味で若手(と言っても、中山さん以降の世代はもう50代に差し掛かっているのだが・・・)を挑発する意味でこうした著書を発表されたんだと思う。そうした中山さんの「苛立ち」は私も常日頃感じているところで、ほんとうに音楽に対する「愛」があるなら、一刻も早く「ぬるま湯雑誌媒体」を卒業し、単行本で勝負すべきと思うのだ。

余談ながら、中山さん以降の世代でも、たとえば原雅明さんの『音楽から解き放たれるために』(フィルムアート社)などは優れた批評性を感じたし、また、今週末イヴェントを行う大和田俊之さんと長谷川町蔵さんの『文化系のためのヒップホップ入門』(アルテスパブリッシング)など、ジャズ以外のフィールドに属される方々の優れた「音楽批評」は、むしろ増えているように思う。

これもまた中山さんの「苛立ち」の原因だろう。そしてその「苛立ち」、というより、自らが属する「ジャズ業界」の不甲斐なさを、私も人一倍強く感じている。まあ、エラそうなことを言うならオマエが書けというおことばが聞こえてきそうだが、やはり若手が育ってくれないことにはいかんともしがたい。

最後はグチになってしまい、もうしわけありません。