think.36 番外編 摂津さんへのお答え・2 【com-post『往復書簡』へのご批判】

まず最初に申し上げておけば、今回摂津さんにcom-post「往復書簡」への具体的ご批判をいただいたこと、心から感謝しております。先日来の摂津さんのご質問にどうお答えすべきかずいぶんと考えあぐねていたのですが、今回の対象を特定した疑問を読み、なるほどそういうことかと、ようやく問題の全体像が掴めてきました。

端的に言って、摂津さんの疑問の大半はmiyaさんに宛てられたもので、私の発言を対象としたものはさほど多くはない。つまり摂津さんのご不満は、哲学の専門家である摂津さんから見れば論証不十分なmiyaさんの主張を、「往復書簡」においてなぜ後藤は容認するのかというところにあったのではないでしょうか。そのご批判は甘受いたします。

というのも、私自身の不用意な部分と、ある程度確信犯的にふるまった部分があり、摂津さんのご不満は良くわかるからです。少々miyaさんには失礼な物言いかとは思いますが、読者に話の全体像を掴んでいただくため、miyaさん流の(若干安直な)「総括」を、「とりあえず話を前に進めるため」「利用」と言っては語弊があるかも知れませんが、「容認」したのは事実だからです。

私としては「話の全体像」を益子さんに掴んでいただいてから、具体的な細部に入ろうとしたのですが、最初から「音楽の“意味”の意味」を巡って議論がスタックしてしまい、どうしたものかと思案しているところに、これも失礼な言い方かもしれませんが「都合よく」miyaさんが登場してくれ、私の“意味”の用法が必ずしも特殊ではないことを説明してくれ、安堵したという心理的側面は無視できません。このあたりの機微、ご理解いただけたらと思います。

とは言え、miyaさんの「説明」もまた、問題があることは事実です。たとえば人間の言語能力(ランガージュ)とゲシュタルト把握を同じものというのは、少々行き過ぎでしょう。動物にだってゲシュタルト認知はあるのですから。また、「暗黙知」という概念も、ポランニーの著作をざっと眼を通しただけですが、私たちが問題にしている音楽的意味を考える場面では果たして妥当するのかどうか、私もいささか疑問を抱きました。

それはさておき、摂津さんも「往復書簡」を通読していただき、私の立場が大きく変化していることはご理解いただいたと思います。ですから、私が立場を変える前の疑問については、特に必要が無い限り言及はいたしません。また、言うまでもありませんがmiyaさんに宛てられた疑問には私が答えるべきではないでしょう。

そうやって整理してみると、私が答えるべき回答は限られてきます。まずvol.31「知覚と言語の関係」ですが、言うまでも無くここは私が立場を変えるきっかけとなったところですから、おっしゃるとおり慎重に考えなければいけないでしょう。また、ここで言及している野矢茂樹氏の著書が現在単行本化されており、現在私はこの本(『語りえぬものを語る』講談社)を精読中であること、すでに掲示板上で言いましたよね。

Vol.34、人の感覚が文化拘束的であると同時に、学習によってそこから抜け出せることは繰り返し言及しております。Vol.36、「90年代ポスト・モダンがビバップよりもフリージャズよりもエレクトリック・マイルスよりも根源的な切断では」、という疑問自体が変更されたことは、それに続く文章をお読みいただければおわかりいただけると思います。

Vol.37、書簡の後半で、誤解を招きかねない「身分け・言わけ」という用語自体の使用を差し控える旨、私自身が言明しました。また、「弁証法云々」という言い回しも同じく誤解を招きかねないので撤回いたしました。

Vol.41、サッチモ、エリントン、パーカー、マイルスの時代、“ジャズ”は聴取層こそ限られていたかもしれませんが、ファン、大衆に受け入れられており、特に「ことばによる」啓蒙の必要はなかったのですが、1980~90年代以降のジャズは、それ以前のジャズの価値観とは異なる美意識で演奏されているように思え、その新たな美意識を適切なことばによって指示、説明する必要があるのではないかと私たちは考えたのです。

Vol.45、私は「miyaさんの引用文中にある」と限定してランガージュを「言語活動」と訳するのは誤訳だと指摘しました。ことばが文脈によって異なる翻訳が成されるのは珍しいことではありません。

ソシュールと丸山を区別する必要があることは同感です。また、誰のことばであれ、無批判に信ずべきでないというのはおっしゃるとおりだと思います。とは言え、ソシュールのランガージュ=言語能力の考え方には、いろいろ示唆に富む内容があることも認めるべきではないでしょうか。

Vol.48、おっしゃるとおりだと思います。


以上、ざっとですが摂津さんの「往復書簡」への疑問に対する私の回答です。不十分なところもあるかと思いますので、不明なところは再度、具体的に文章を引用していただいた上でご質問いただければと思います。また、当然のことではありますがmiyaさんの発言部分に対する疑問は、お寄せいただいても私としてはなんとも対応いたしかねます。そのあたりの事情はご理解ください。


最後に、これを読む方々の便宜のため、攝津さんの「いーぐる掲示板」への書き込みを再掲させていただきました。なお、「言いたいことはない」と書かれている章はあらかじめ削除させていただきました。



【com-post往復書簡を読む】
投稿者:攝津正 投稿日:2012年 3月28日(水)08時57分24秒

com-postを再読しています。

vol.02
「それと同時に、私は人間の感覚というものは変容しうるという事実に気が付きました。それならば、この「感覚のなりたち」を分析してみれば、いままで単なる無意味な音の連鎖としてしか認知できなかった音響現象が、有意味な対象へと変容していく過程が明らかになり、ひいては、文化的対象が意味を持つに至る一般的な構造も理解できるようになるのではないか、と考えたのです。」

これはおっしゃる通りだと思います。

vol.03

「通常、「意味」という言葉は、シニフィアンに対するシニフィエ、つまり記号表現や象徴表現に対応する内容や概念、イメージ等(あるいはそれらを言語的に表現したもの)を指していると捉えられます。音楽がそうした「記号」のような構造を持つものだと考えることは可能ですし、現にそう考えている人は少なくないと思います。またその一方で、音楽は言語のような「記号」とは異なる構造を持っているのだという考え方もあります。後藤さんのおっしゃる、音楽の「意味」とはいったい何を指しているのでしょうか?」

記号は言語よりも広い意味で使われます。非シニフィアン記号論も考えられます。例えば、楽譜は言語ではありませんが、記号です。具体的な音楽の演奏がどうだかは分かりませんが。

vol.04

「私が特に断りなく「音楽の意味」というときの“意味”は、「言葉の意味」あるいは「記号的意味」ではなく、人間が外界を把握するときの枠組みのことで、そのもっとも基礎、根底となるのは対象を認知する際の「知覚の枠組み」すなわちゲシュタルト認知です。そして「地の上の図」は視覚のゲシュタルトの基礎単位ということです。」

ゲシュタルト認知」はよく分からないので判断を保留させてください。

vol.11

私は感覚 / 観念というような二元論に反対です。

vol.13

「たとえば、ソシュール研究の世界的権威 丸山圭三郎は、なぜ発話行為パロール)が成立可能なのかを追求し、発話行為パロール)を可能にしているのは単に言葉の規則としてのラングではなく(その真の動因は意識的な言葉の諸規則、言葉の体系からは分析し尽くすことが出来ないとし)、それを意識の底に隠れている人間の根本的な「意味生成」(ランガージュ)能力にあると結論づけています。(『文化のフェティシズム1984)」

ランガージュ / ラング / パロールの用法には慎重さが求められます。
パラールの根拠がラングではなく、ランガージュだというのは、ソシュールの意見なのでしょうか。丸山の意見なのでしょうか。それをはっきりさせる必要があります。
もしランガージュを意識の底に隠れている人間の根本的な「意味生成」能力であるなどと考えるならば、それは新たな観念論だし、ソシュールというよりもチョムスキーなのではないでしょうか。
ソシュール自身では、ランガージュとはラングとパロールを両方含めた「言語活動総体」でした。そして、それだけです。
意味生成能力=ゲシュタルト認知とかいうのも本当でしょうか。私は疑います。
繰り返しますが、丸山=miyaさんの意見はただの観念論の復活なのではないでしょうか。

vol.14

「「エントロピーの増大による一様化・無秩序化に抵抗する「生命−身体」による環境の構造化が行われる際、ヒトは機能的な“意味あるまとまり”を事象に付与することで、環境を構造化=変容する」」

私にはこういう物言いは理解不能です。

「「芸術とは、ノモスに生きることによってこそ、そしてその抑圧に対して不断に反抗することによってこそ、より豊かに、より密なる下意識の網のなかで絶えず連鎖してゆくイメージの自己増殖と、さらにはこの<コードなき差異>の動きが「身」をより激しく毀して裂け目を大きくすることから湧出する新しいカオスとの相乗作用を、その原動力としているのではあるまいか。」(『生命と過剰』河出書房新社・P.246)」

こういういい加減な議論は少しも信用できません。「カオス」とは何のことですか。

vol.16

二重分節とは「身分け」「言分け」のことではありません。私のブログから加賀野井秀一の要約を引用します。「アンドレ・マルティネの機能主義の学説の中心は「二重分節」です。「彼」を「か」と「れ」に分析してしまえば、もうそれは記号ではありません。ただの音です。「彼」はぎりぎりのところで記号とされるもの、記号の最小単位ですが、それがマルティネのいう「記号素(モネーム)」です。言葉を記号素に分割するのが「第一次分節」、その記号素を例えば「か」と「れ」のような音素に分割するのが「第二次分節」で、あわせて「二重分節」です。」

vol.17

「とは言え誤解されるといけないので先に述べておきますが、身体が全くモノ(実体)として存在していないというわけではありません。つまり、「身体」とは単なるモノ(客観的な対象)でもなければ、実体を持たない「純粋意識」(主観的な対象)でもない、いわばその両方の側面を持つ両義的存在と考えるべきなのです(身心一如)。ちなみに身体に対するこの常識の転換こそが、実は後藤さんの言う『日本のジャズ評論の貧しさの原因とでも言うべき「主観論」(個人の趣向で一切を裁断する立場)と「客観論」(ジャズに客観的価値基準があるはずだという論者)の不毛な論争』という“問題の本質”の喝破へとつながっていると私は思っています。」

身体論がどうして、ジャズ評論の主観論と客観論の論争という問題の本質の喝破になるのかわけがわからないし、私はそもそも市川浩の議論に疑問です。

vol.18

「文芸批評家の三浦雅士氏は市川氏のこの文章を取り上げて「アイデンティティとは近代の虚構にすぎない。人間ははるかに動的なシステムとして自分という現象を生きている」(『主体の変容』)と述べています(この市川氏の身体観が以前取り上げた丸山圭三郎氏の<異なるもの>に出会うことで感じる“身が壊れる喜び”と重なりあっていることにぜひ注目してください。<異なるもの>に出会うことで起きる身が壊れる喜び(その時<身体>に起きた感覚の変容)こそ美的体験なのですが、それは動的システムとしての身体にとって本質的要件なのです)。」

これは妄想です。

vol.19

ポスト・モダンとは「ジャズなんて好きに聞きゃいいじゃないか」ということではなく、歴史が終わり、もはや新しいものは何もないという絶望的な認識のことです。

vol.20

「ジャズ史的大事件にあったのは身体感覚の変容などではなく、単なる「落差」程度のものではないのか?」

そういう疑問が出てくるのは当然です。

vol.22

「(1)自由な「主体」によるオリジナルな表現の失効とそれに伴う「主体」のあり方の変容。その一つの現れとしての「媒介中心性」という表現主体。
(2)従来の「主体」による「表現」という形態に代わる「環境(情報・コミュニケーション環境)」による「生成」という形態。」

「媒介中心性」とか「環境」による「生成」などは私には理解できません。

vol.23

「また本題の身体論の立場からすれば、「身体」とは(1)と(2)の議論の間、つまり「表現主体」と「環境」の間にあって、両者を媒介・関係づけるものとしてあると私は考えています。」

私はそうは考えません。

vol.28

どうして90年代なのかよく分かりません。

vol.29

「以上が前ふりで、これから本論に入ります。まず従来からの議論では「認識の切断面」「身体感覚の変容」と曖昧に併記していましたが、私の考えでは、両者は異なる位相にある。より本質的(より深層構造であるという意味)なのは「身体感覚の変容」で、それが「原因」で、「認識」が変化する、(のではないか)と私は考えています。以前話題になった「身分け」「言分け」という用語に従えば、より深層的である身分け構造の変化が、人間の言語的な外界把握をも変容させている、すなわち「認識」を変えているということです。

その「身体感覚」ですが、これは当然時代、文化によって変化すると考えられますが、今私たちが問題にしているのは時間軸に沿った変容なので、それが世代論的様相を見せることは不思議ではないでしょう。しかし、すべてを世代論としてしまうと、近頃では5年サイクルぐらいで小規模に「変容」が起きているようにも思え、それでは「時代とともに音楽が変化する」という、ごく当たり前の話になってしまいます。

私が問題にしているのはそうした小規模な変化ではなく、もっと大きな(というか本質的な)、その前後で「認識」にまで変化が起きてしまうような切断面のことを言っています。また、それは個人的な問題ではなく、ある時代層を境とした「世代」全体の変化についての話です。ただ、そこで難しいのは、当然その大きな時代、世代を貫く変化の内部で、それとは位相の異なる(と思える)個人的変容もまた起きているであろうからです。断言は出来ませんが、私のパーカー体験は大きな切断面の内部での、個人的身体感覚の変容ではないのだろうか。つまりこれは個人的な「学習」の問題であって、私たちが問題にしている「切断面」ではないのではないでしょうか。

あまりうまく話が展開できているとは思いませんが、要するに「学習の上で獲得する身体感覚」と「無意識のうちに身についている身体感覚」は、分けて考えなければいけないのではないか。そして、今私たちが問題にしている「認識の切断面」に繋がるのは、後者の「無意識のうちに獲得している身体感覚の変容」ではないのか、というのが私の今の感触なのです。このあたりについて、相澤さん、益子さんのお考えをお聞かせ願えればと思います。 」

「もっと大きな(というか本質的な)、その前後で「認識」にまで変化が起きてしまうような切断面」などあるのでしょうか。論証できますか。

vol.31

「しかし、これでは相澤さんと私の見解の相違がまったく無くなってしまいますが、そうなってしまった理由は、冒頭に書いたとおりです。そこで、私の考えの変化の道筋を少し詳しくご説明する必要があると思いました。野矢さんの記事が決定的でした。その内容をご説明する前に、私が以前からわからなかったことの一つに、think第4回で触れた「虹の見え方」の問題があります。日本人は一般に7色という虹を、3色だという人たちはほんとうに3色しか感じていないのか? それとも、彼らもわれわれと同じように連続した太陽光スペクトルを感じ取ってはいるが、単に色名が3つしかない(それ以上の色名は生活に必要が無い)だけのことなのか?

think4を読み返してみると、
【網膜上には6色なり7色なりが投影されているが、それを頭で2色なり3色なりに「翻訳」していると考えることも出来ようが、実はその「翻訳作業」自体を〈感覚〉と呼ぶべきなのである。】
と書いていますが、野矢さんの記事を読み、この現象=「翻訳作業」を、〈感覚〉=知覚作用として捉えるべきでなく、むしろ「言語作用」=概念化作用と考えるべきであると気が付いたのです。 」

そうかもしれませんが、知覚と言語の関係は慎重に考えたほうがいいでしょう。

vol.32

「これをジャズの場面に置き換えれば、新たに生まれつつある多様な「新しいジャズ(音楽)」の「微妙なニュアンス」に対して、私たちは、それを説明することばはまだ持っていないが、そのサウンドを感じていないわけではない。従って、しかるべき適切なことば(まさにここに批評の存在意義があるのですね)を用いれば、そのニュアンス、聴き所は概念化=言語化され、それに対する(肯定するにしろ批判するにしろ)共通の評価軸が成立する可能性が生じるだろうということです。」

この意見が妥当かどうかは多様な「新しいジャズ(音楽)」を詳細に吟味してみなければ何もいえません。

vol.34

「その「個人の感覚」自体が、すでに固有の文化によって「色付け」られている(すなわち「個人的」ではありえない)という、ご存知の方にとっては当たり前の事実」

個々人の思考、発話、知覚が文化拘束的なのは事実でしょうが、それはその文化から逃れられないとか越境できないということでもなければ、個々人が自由ではないということでもありません。

vol.36

「ところで、ここまでの話をお読みの方は、何も「ポストモダン問題」などと大仰に構えることは無く「ジャズ耳」の揺らぎは、ビバップ期にもフリージャズに対しても、またエレクトリック・マイルス批判においてもあったのではないか、と当然の疑問をお持ちのことと思います。それに対して私は、過去の揺籃期においては、たとえばビバップ容認派も批判派も「同じ音」を聴いた上での対立(知覚は同じだがそれに対する価値観が異なる)であったのが、ポストモダン期(その開始年代については諸説ありますが)においては「音の受容自体」が変容(知覚自体が異なっている)しているのではないか、という疑問を持ったのです。」

私も後藤さんがおっしゃる「当然の疑問」を持ちます。90年代ポスト・モダンがビバップよりもフリージャズよりもエレクトリック・マイルスよりも根本的な切断だというのは本当でしょうか。

vol.37

ソシュール言うところのシニフィアン(聴覚や視覚の対象として感覚可能なもの)とシニフィエ(対象が現前せずとも思考可能なもの)の関係が相互に独立したものではありえず(「犬」とか「山」の純粋な概念があらかじめ存在するわけではない)、両者がセットになって初めて言語が成立するように、感覚と言語の関係も「身分け構造」自体が「言分け構造」の侵食を受け、両者の間にいわゆる弁証法的な関係が成立しているのではないか。」

シニフィアン / シニフィエは一枚の紙の裏表のようなものでしょうが、感覚と言語の関係がそうだといえるのでしょうか。ましてそれが「弁証法的な関係」だといえるのでしょうか。

vol.38

フーコーエピステーメーを構造と捉えていいのかちょっと分かりませんが、構造は不変ではないとしても、ゲシュタルト(形態)ほど可塑的ではありません。

vol.39

「また、いまたまたま「原因」という言い方をしてしまいましたが、より正確には、言語においてシニフィアンシニフィエの成立が同時であるように、新たなジャズへの身体感覚の変容と、新たなジャズ観への認識の変容(すなわち認識の切断面)は、相互、かつ同時に起こりつつある現象のようにも思えます。」

言語には起源があるはずですが、それを問うても答えはありません。「赤」(a-ka)がなぜあの赤なのか、は恣意的です。或るラングのなかで或る辞項が他の辞項とのnagatifな差異において意味があるといえるだけです。

vol.41

「かつてジャズが偉大だった時代、サッチモの、エリントンの、パーカーの、そしてマイルスの音楽に対する「批評のことば」なぞ、極論すれば無くても充分だったのです。彼らの音楽はそれ自体で有無を言わせない力があった。

しかし、現在の「ジャズ」には、そうした力があるとはどうにも思えません。しかしまったく無いと決め付けるだけの根拠もまた、私たちは持っているわけではないのです。今ほど、ジャズ関係者の発言が重要な意味を持ちうる時代は無かったのではないでしょうか。

もはや私たちは、サッチモの、エリントンの、パーカーの、マイルスの、そしてその他の多くの愛すべきジャズマンたちの音楽の、「お客さん」である時代は過ぎたのです。今やそれぞれが一ジャズファンでもある私たちの、生産的批評のことばが、ジャズの命運を左右する状況に至ったと言えるのではないでしょうか。」

哲学を離れて、このロジックはよく分かりません。サッチモ、エリントン、パーカー、マイルスは偉大だったから批評は不要だったのでしょうか。現在のジャズが無力だから「生産的批評」が必要だといいますが、批評がジャズ演奏を蘇らせるのでしょうか。だとすれば、それはどのようにしてなのでしょうか。

vol.42, 43, 44

ここで益子博之さんが述べておられる疑問は当然です。この益子さんの指摘が「往復書簡」の困難の最大の理由ではないでしょうか。

vol.45

「それはさておき、質問にお答えいたします。まず、miyaさんの引用文中にある「ランガージュle langage」を「言語活動」と訳すのは明らかに誤訳です。専門的な含意があるフランス語を、そのまま英語に直訳してはまずいですよ。ソシュールがこの用語に込めた意味は、すべての人間が潜在的に持っている「言語能力」のことで、すでに成立しているラング(国語)を用いた具体的な言語活動(パロール発話行為)のことではありません。」

そうでしょうか。ランガージュはパロールではありませんが、ラングとパロールの双方を含む総体的な言語です。「言語活動」と訳してある邦訳も大量に存在しますが、全部「誤訳」だと断言できますか。

「私たちはここでソシュールにならい、とりあえず狭義の言語現象を整理しておくことにしよう。まず人間の〈言分け構造〉を生み出すシンボル化能力を〈ランガージュ le langage〉と呼び、特定共時的文化の中で構造化されている言語すなわち〈ラング les langues〉と区別せねばならない。この意味でのランガージュとは、まさに「人類を他の動物から弁別するしるしであり、人間学的な、あるいは社会学的といってもよい性格を持つ能力」(ソシュール、手稿1、断章番号3283・8)であって、「コトバの能力」という訳語を当てることができる。これはあくまで一つの潜勢、一つの能力に過ぎず、本能とは異なった獲得形質としての生得物である。何となれば、先にも見ておいたように、この生得能力は人間の社会のもとにおいてしか顕現しない特殊な過剰能力であって、〈身分け構造〉の図式にあらかじめ描かれていたものではないからである。(同著p,108より引用)」

ソシュールと丸山を区別しなければならないし、ソシュールの言葉であっても無批判に信じることはできません。ランガージュ=特殊な過剰能力というのは丸山の文化理論です。私は信じません。

vol.46

「ここは音楽について語る場所なので、「身分け」「言分け」といった抽象的な言い回しをやめ、前者を、音楽を聴いた、あるいは演奏する人間の「身体感覚」に、後者を、いわゆる「音楽理論」に当てはめてみます。」

その用語法のほうが妥当でしょう。

vol.47

益子さんの疑問は当然です。

vol.48

後藤さん、miyaさんが『文化のフェティシズム』に依拠しておられるのはよく分かりますが、その妥当性を客観的に再検討すべきです。

vol.53

「結論からあっさりと述べてしまえば、ここで論じられている言語能力による「意味生成」能力と「ゲシュタルト認知」、「表現行為全般」や「音楽の意味」はすべて等号で結べるものです」

論証してください。

ソシュールフッサールの比較は粗雑です。「実体論から関係論へ」とかと何の関係があるのでしょうか。そういう議論のことを悪しき「ポスト・モダン」というのです。さらに、「暗黙知」まで持ち出すのはどういうことでしょうか。