think, 37

摂津さんという非常に哲学に詳しい方から、私と益子さん、miyaさん、相澤さんによってジャズサイトcom-post誌上で交わされた「往復書簡」に対する、章(つまり発言者)を指定した具体的なご批判をいただきました。それに対するご返事は前回のthink,36でいたしましたが、摂津さんのご提言によってこのたびthink、そして「往復書簡」を読み返し、いろいろと問題が整理されてきたように思います。

まず、私がthinkを書き始めた動機は、ジャズが与えてくれる感動の不思議の解明(それは美術作品を含めた、“感覚芸術”一般に対する感受性の問題と言っても良いかと思います)、そして混乱しているジャズ評論の世界に(混乱しているのは「ジャズ」自体かもしれないのですが…)最低限度の共通理解というか、議論の土台を築きたいということの二つでした。そしてcom-post「往復書簡」は、私がthinkで提起した問題に対して益子さんが質問するという形ではじまり、ちょうどそのとき話題となっていた「ポスト・モダン・ジャズ」の問題にも議論を繋げて行こうとするものでした。

というのも、私がthinkで身の程も知らずにも、ミシェル・フーコーが『言葉と物』(新潮社)で提起した「エピステーメーの変容=認識の切断面」という、非常に難解かつ重要な概念を、不用意にも現代ジャズの「わかりにくさ」の原因に、似たような構造の「感覚の変容」があるのではないか、などと「問題提起」したことが背景としてあったからです。しかし、このことが「往復書簡」の議論を錯綜させてしまう原因の一つとなったようです。

「往復書簡」はmiyaさんの益子さんに宛てた書簡を最後とし、益子さんが回答する順番のまま現在に至るまで再開されてはいませんが、相澤さんと何らかの形で再開させようという下話はしております。今回改めて「往復書簡」を読み返し、痛切に感じたのは私自身の「説明能力」の貧しさでした。というのも、益子さんにしろ、また攝津さんにしても、「私の考えていること」をご理解いただいた上での「批判・疑問」以前に、「私の考え自体」を正確にはご理解いただいていないという、みもふたもない事実です。

言うまでもありませんが、この件に関する「挙証責任」(説明する責任)は私にあります。とは言え、その「貧しい」説明能力にも関わらず、miyaさんは、(若干の勇み足はあったにしろ)ほぼ正確に「私の言いたいこと」をパラフレーズしてくれたのも事実でした。それはお互いにソシュール構造主義言語理論、そしてその研究者である丸山圭三郎の著作、および根源的発想において深い関連を持つメルロ=ポンティ現象学に通じていたからという、「偶然」に支えられていたからなのかもしれません。

とは言え、「ソーカル事件」以来悪名高い、例の「80年代ニュー・アカ・ブーム」の余波として、当時はちょっとしたわけ知りは、ソシュール理論ぐらいには通じているのが「常識」と見なされてもいたのですが…(個人的には、「感覚芸術」を論じようと思うなら、現象学についての基本的知識もまた、「常識」であるとも信じております)。まあ、美術評論等に比べ、近年音楽評論の「貧しさ」が囁かれるのも、論者たちがこうした基本問題に対して、いささか不用意なところが散見されるからなのかなあ、などとも感じておる次第です。

少々「エラそうな」ことを言いすぎたかもしれません。言うまでもありませんが私は一介のジャズ喫茶オヤジ、とうていこうした難問に適切な回答など出せる能力は持ち合わせてはおりません。とは言え、もう還暦を過ぎたオヤジにこんな「お荷物」を背負わせている若手ジャズ評論家の皆さま方におかれましては、「ちょっとは肩代わりしてくれよ」とグチりたくもなるのです。

それはさておき、thinkで提起した疑問のうち、ジャズがもたらす感動の不思議については、個人的レベルではありますが、ある程度問題の所在がわかりつつある感触を持っております(これについてはいずれ何かの機会に書くことがあるかもしれません)。また、thinkで提起した二つ目の問題とからむ、「認識の切断面=感覚のズレ」については、「往復書簡」で私の考え方が変わったことを明言しており、当初提起した形、すなわち「感覚自体の変容」という発想は若干変更されることとなるでしょう。

そもそもフーコーの仕事は広範な古文書の分析によって行われており、言うまでも無くそれは文字言語を媒介とした研究でもあります。そこから導き出される「エピステーメーの変容」と、音楽という「知覚現象」を対象とした「知覚の断絶」を、安易に同一視できるかのように考えたのも、今となっては大いに疑問ではありました。ただ、「対象とそれを指し示すことば」という、フーコー本来の問題意識に戻してみれば、これはこれで「現代ジャズのわかりにくさ」に別の方向から光を当てることにもなるのかなとも、ごく最近思うところがありました。

それはまさしく「ジャズ」ということば自体の意味内容の変容です。この件については、最近極めて興味深い報告がcom-postを舞台としてもたらされました。以下はcom-post同人、八田真行さんによるエスペランサ・スポルディングクロスレビューの一部からの引用です。ちなみに八田さんはお若いながらアメリカ生活の経験があり、これらの報告は身近な体験がもとになっているものと思われます。そして言うまでもありませんが、八田さんはジャズには相当詳しく、失礼な言い方かとも思えますが、「審美眼」の方も間違いありません。


●以下引用

やや誇張気味かもしれないが、例えば現在のアメリカにおいて、別に熱心な音 楽ファンというわけではないごくフツーの人が「ジャズ」と言われて思い浮かべるのは、いわゆる「スムーズ・ジャズ」と呼ばれる音楽ではないかと思う。日本で言うところのフュージョンというか、クロスオーバーというか、そういうタイプのイージーリスニングな音楽である。ネット・ラジオも含め、ジャズ専門のラジオ局というのは多くあるわけだが、そういうところで人気なのも、実はスムーズ・ジャズのチャンネルだったりする。ちなみに、日本人の多くが単に「ジャズ」と言われて思い浮かべるような、4ビートでアク−スティック中心のハードバップないし新主流派的な音楽は、私の印象では全部ひっくるめて「ビバップ」と呼ばれることが多いような気がする。

ようするに、いわゆるオーソドックスなジャズのリスナーは、ニューヨーク・シティのような「特殊な」地域を除けば、今やアメリカにおいてはほとんど存在しないのだ。特に、ジャズは黒人音楽として出発したにも関わらず、現在の若い黒人とは全く縁遠いものとなってしまっている。今や、ジャズを聴くのも演じるのも多くが白人ないし非黒人で、黒人は大方ヒップホップやコンテンポラリーなR&Bを聴いているのである。  
  (中略)
そして、ジャズと全く縁が無いまま育った世代が、すでに20代後半から30代の働き盛りに達している。彼らにとって、ジャズは当然共通言語ではなく、もしかするとお勉強の対象としての一般教養ですらなく、たぶん完全に歴史に属するものなのだと思う。歴史に属するとは、ようするに、自分とは何のつながりもないということに他ならない。そうした人々が、音楽の聴き手のみならず、作り手の側にも回りつつある。

●引用終わり


実を言うと、こうした状況は私もわからないではなく、大昔、1970年代初頭にはじめてアメリカ西海岸に行ったとき、ロスやサンフランシスコの黒人たちがほとんどジャズを聴かず、彼らが手にぶら下げていた当時流行の日本製携帯ラジオから流れてくる音楽のほとんどが、いわゆるソウル・ミュージックだったことにちょっと驚いた経験があるのです。黒人はジャズを聴かない。

つまり、私たち日本人が「ジャズ」と思っている音楽ジャンルは、本国ではいまや間違いなく「歴史的文脈」に属するもので、ちょっとおおげさかもしれませんが、私たちが琴、三味線の「邦楽」を珍しげに体験する状況に近いのかもしれない。これでは「伝承」にズレが生じるのも無理はなく、本場だからと言って彼らが演奏する「ジャズ」が、私たちが知っているジャズとまったく同じ価値観、感受性で演奏されている保証はないように思えるのです。

話は飛びますが、平家の落人が山奥に逃げ、平安時代の京ことばが今に伝えられた、なんて伝説があるように、日本で「冷凍保存」された「ジャズ」が、意外と原初のジャズを正確に伝承しているという可能性だって、私は否定できないように思うのです。これはある意味、ライヴという「今」が優位な状況が日本では最近まで無く、ジャズ黄金時代と言われた1950年代60年代のジャズが「ジャズ喫茶」という日本固有の音楽聴取空間を中継地点とし、レコード、CDを介して人口に膾炙した結果なのではないでしょうか。だって、ラーメン屋のBGMにブルーノートハードバップがかかる国なぞ、世界広しといえども日本ぐらいしかないんじゃないでしょうか… 言うまでもありませんが、こうした現象はプラス・マイナスの両面を見る必要があると思うのです。

ところで、こうした「ジャズ概念」のズレ現象は日本にもあって、1990年代あたりからクラブ、DJを介してジャズに興味を持った音楽ファンが、クラブ、DJフィールドに影響力を持つ雑誌等から「ジャズ」の知識を得、しかしそうした「ジャズ」は、ジャズ喫茶等で考えられているジャズとは少しばかり異なった側面からの受容だったりもするようです。

最近com-postで行われたロバート・グラスパーエスペランサ・スポルディングに対するクロスレビュー、そしてそれらに対する読者の皆さま方からの熱心な投稿により、同じ音楽に対する見方の違いの原因は、どうやら論者たちの「ジャズ概念」の違いによるような感触を持ちました。

これら日米二つの現象から想像できるのは、問題の所在は、私が以前からゴチャゴチャ言っていた「感覚の切断、変容」などではなく、単に「違うものを同じものとして見ようとする」ところから生じた認識のズレに過ぎないのではないかという感触です。

というわけで、問題の所在は別にある、あるいは、問題の立て方が間違っていた可能性に気がついたというわけです。偶然ですが、com-post掲示板に矢野利裕さんという方が書き込まれた内容が、まさに私の「気付き」と同様の疑問を提示され、やはり議論を公開することのメリットを強く感じた次第です。

その代わり、これも「往復書簡」でかなり具体的に言及しましたが、生まれつつある新たな「ジャズ」を説明する「適切なことば」の必要性は強く感じました。こうした認識に至るには二つの理由があるように思います。

一つは「往復書簡」でも触れましたが、野矢茂樹氏の著作『語りえぬものを語る』(講談社)の「新たな知覚対象にことばが与えられる際のメカニズム」に関する記述が、私のthinkにおける考え違いを修正するきっかけとなったこと。

もう一つは、「往復書簡」中断中に『いーぐる連続講演』における中山康樹さん主導によるヒップホップ特集や、関口義人さんと共催した『ジャズとワールド・ミュージックの微妙な関係』といったイヴェントの体験を通じ、実体験として「見えて」来たものがあります。

とくに後者では、自ら著した本のタイトル『ジャズ耳』の問題、そして、think, 33, 34でさらっと触れた「白耳・黒耳」といったかなり思いつきの発想が、何らかの問題進展のきっかけになりそうな感触を持っております。

ところで、私がthinkで展開したかったことはけっこう単純な話で、たとえば文学批評を行う場合、もっとも基礎となるのは何かと言えば、あまりに当たり前のことかもしれませんが「言葉の意味」がわからなければいけないと言う、実にシンプルな事実です。漱石研究云々と言っても、たとえば「吾輩は猫である」の「猫」という言葉の辞書的意味がわからなければ話は先に進まないということです。

「猫」の意味など私たちは幼児期に自然体得しているので何をいまさらと思うのですが、古典文学ともなれば、単純な言葉の意味もそれなりに考証しなければいけませんし、英語圏の人間が漱石研究をするなら猫=catのレベルから始まるわけです。つまり、これは当たり前のようでいて実は「話の始まり」なのです。そして次にくるのが文法構造を介した「文章の意味」そして、より高次の意味として小説の結構についてさまざまな解釈がなされるという、簡単に言えば研究にはこうした順序、階層があると思うのです。

同じことを音楽で考えたらどうなるのか。まず「音楽」が成立する条件を考えてみると、一定の音響現象が「音楽としての意味」を持つことが基礎となるでしょう。そしてその手前に、音響現象の知覚ということがある。thinkはこうしたことを順序だてて考えてみようということなのです。

私たちの知覚は「意味として」把握されます。ここがポイントです。私たちは外界を「客観的に」認知しているわけではない。「白い紙の上のインクの染み」が、すでに本来どちらの領域に属するわけでもない中立的であるはずの境界線を、インクに属するものとして、すなわち染みの方に属する輪郭線として把握することにより、インクの染みという「意味ある図形」が浮かび上がり、決して染みに抜かれた白地の形態を認知することは無い。これがいわゆる「ゲシュタルト把握」というやつですね。

おそらくは音響現象においても同様の「意味づけされた知覚現象」があるはずです。これは「カクテル・パーティ効果」などを思い出せばある程度はご了解いただけることでしょう。カクテル・パーティの騒音の中に、自分の知っている単語が出てくると、ノイズを潜り抜けて対象の会話を聴き取ることができるようになる。要するに人間を含む生物体は外界を客観的に認知しているのではなく、自己の生存に適するよう巧みにデザインされた知覚構造を持っているということですね。

ただしここで問題となるのは、音楽の意味は言語の意味とは違うと言うことです。まあ、この最初の部分で「往復書簡」は座礁してしまったのですが… 言葉の意味は観念を経由していますが(というか、観念と音響等の知覚与件の恣意的結合がシーニュ、すなわちことばなのですが)音楽の意味は直接知覚的です。

ただ、ここでちょっと厄介なのは音楽の「記号的意味」というやつです。「記号」という概念は「言語学」と隣接した「記号学」という分野があるぐらいでけっこうややこしいのですが、「記号」というものは人間のさまざまな営為体験の中から生まれた「単なる感覚与件以上の意味」を持っています。一例を挙げれば信号機の赤色は、視覚に与えられる感覚与件である「アカ」以上の意味、すなわち「止まれ」を指示しています。

これはいい例かどうかわかりませんが、「君が代」を聴いて嫌悪感を催す方があったとします。この場合二つのケースが考えられる。純粋に音楽的に嫌な感じがするというケース(けっこう暗い旋律ですからね、コレじゃ戦争にも負ける)と、特定の思想的背景から嫌悪感を催すという場合です。前者は純粋に感覚的問題ですが、後者では観念の作用が含まれている。別の言い方をすれば、「君が代」の旋律からある種の「記号的意味」を認知している。

とは言え、後者の方(いわゆるサヨクの方々ですね)にとっては、当初こそイデオロギー的に、すなわち思考の作用を経由し、「君が代」の旋律に嫌悪を感じていたにしろ、そうした体験(強制的に起立させられるとか)が重なると、別に観念云々とは関わりなく、「嫌な感じ」に聴こえちゃうというのはありそうなことです。この場面では観念が感覚を変容させたとも言えるかもしれません。オオゲサに言えば、観念が感覚領域にまで侵食し、知覚構造自体を変容させている可能性をも視野に入れる必要がある(この部分にはかなり重要な問題が潜んでいるのですが、それは項を改めて論じたいと思います。かつてディスク・ユニオンのフリーペーパーで若干触れた話です)。

もっと穏やかな例を考えると、たとえばデクスター・ゴードンなどが良くやる「クォーテーション」というのでしょうか、よく知られた俗謡などの旋律をアドリブの中に忍び込ませる例のやつです。その部分ではフレーズがある種の「記号」として作用することもありえる。同じような例でも、チャーリー・ヘイデンなどがアメリカ国家などをマイナー調で旋律の中に紛れ込ませたりすれば、それはやはり一定の「イデオロギー的」意味を持たざるを得ない。

「往復書簡」の初期に益子さんが言及した「音楽の記号的側面」は、もしかしたらこうしたことなのかもしれません。そういうことはあるのですが、やはり音楽の中心的な「意味」は、私は非言語的なもの、すなわち感覚的なものだと思うのです。ここではじめて感覚と言語の複雑な関係について語るべきときが来ましたが、少々長くなりすぎたようなので、今回はここまでといたしたいと思います。

最後に、毎度のことながら、哲学プロパーでもないジャズ喫茶店主が無い知恵を絞って書いております。ことばの誤用、考え違い、論理の飛躍など多々あろうかと思います。お気づきの点はご遠慮なくコメントください。直ちに訂正、修正いたしたいと思います。私は「知恵」は特定の個人に属するものではないと考えており、攝津さん、益子さん、miyaさん、相澤さん、八田さん、そして矢野さんら、多くみなさま方のお知恵を拝借し、一歩でも問題が解明できればそれで良しとする立場なのです。

2012/04/28