5月12日(日)

自分も一部登場するイヴェントなので、ちょっと書くのは面映いが、観客としてコメントしよう。この日、吉祥寺「マンダラ2」で行われた、古くからの友人であるひらたよーこさん主宰するグループ「あなんじゅぱす」2本立て公演は、このところ数回観た「あなんじゅぱす」の中で出色の出来映えだった。

第一部「ドリトル先生月から帰る」、前回見た初演は、正直言って若干まとまりを欠いた感もあったのだが、今日は、間に挿入されたよーこさん朗読するところの「手紙」の効果も含め、「舞台が完成」したことが如実に実感される。分析的に言えば、澤口希のマリンバ、大光亘のドラムス、そしてひらたのピアノ、歌が完全に一体化しており、ジャズで言う「グルーヴ感(もちろん音楽的にはジャズではありませんが)」が醸し出されているのだ。

また、大光さんのドラミングも、彼があなんじゅぱすに参加したての頃に比べると、はるかによーこさんの世界にしっくりと馴染んでおり、グループとしての成長がうかがえる。

同じステージを比較して観る醍醐味がここにある。そう言えば、ジャズ以外で同じミュージシャンの演奏を繰り返し観たのはあなんじゅぱすが一番多いかもしれない。それだけにこのユニークな音楽グループの歩みが手に取るようにわかり、「ああ、今転換期」とか、「これは新機軸」あるいは「一歩抜け出した」などなど、ファン、プラス、若干批評的な見方をしてしまい勝ち。

で、このグループ、今一番油が乗っていると見た。第2部に入る幕間に私はゲストとして登場し、あなんじゅぱすとの馴れ初めやらステージの感想、etcを語った。そのときの話を要約してみよう。


初めて観たのはもう数年前になるが、com-post編集長にして音楽評論家、そして古くからの友人である村井康司さんに連れられて来た。だからまったく事前の知識はなかったのだが、たまたま演目が今日これから第2部で上演する幻灯演奏会『夜の江の電』で、私は昔藤沢に住んでいたことがあり、江ノ電にはけっこう乗った。

そうした「馴染み」が、かなりユニークなこのグループの「とっつき」を良くした面もあると思う。しかし、その後、まったくジャズではない彼女たちの音楽を聴き続けてきたのは、やはりひらたよーこの独創的歌唱の才能だろう。

「ユニークさ」とは、彼女が現代詩に曲を付け、自らピアノで弾き語るという「力技」を実にしなやかにやって見せたことだ。こうした前例を私はあまり知らない。というか、この試みの「難しさ」が良くわかるだけに「無くて当然」の思いもある。

というのも、一般の「歌詞」に比べ、中原中也西脇順三郎萩原朔太郎田村隆一入沢康夫谷川俊太郎といった当代一流の詩人たちの「詩」は、とてつもない「ことばの力」「イメージ喚起力」を持っており、なまなかの歌唱では「歌が負けて」しまう。

早い話、ジャズ・スタンダードの歌詞など、訳してみればたわいも無い恋愛沙汰やら日常雑感が多く、それだけに歌手の「思い入れ」の余地も大きい。だが、現代詩はそうは行かない。

だから「力技」と言ってみたのだが、実は彼女、まったく「力」を感じさせず、ごく自然体で詩の言葉に寄り添い、そのことばの力を自らの歌の力に変換させてしまうマジックを持っているのだ。そしてその「寄り添いつつ己が世界に取り込む不思議な力」は、作曲においても発揮され、詩があたかも彼女の歌唱のためにあるような錯覚さえ生み出している。


といったようなコメントで幕間をつなぎ、第2部『夜の江の電』。初めて観た時からだいぶ日が経っているので忘れていたが、「幻灯演奏会」と銘打っている映像は、写真家、田中流の作品。これがいい。田中さんの写真の良さに最初に気が付いたのは、あなんじゅぱすの演目「ピチベの哲学」の際、壁面に映し出された流さんの写真が音楽にフィットしつつも、独自の世界を構築していたことがきっかけ。

そう言えば、このとき確か澤口さんも登場し、そのマリンバの美しい音色に聴き入ったものだった。懐かしいなあ。

打ち上げの席では関係者の方々との四方山話、昔話に花が咲いたが、その際「マンダラ2」のご主人、中野さんがジャズ関係者であることがわかり、同業者としての苦労話で盛り上がる。ともあれ、あなんじゅぱすをご覧になったことのない方は百聞は一見に如かず、ぜひ一度経験されたらと思う。特に「歌の力」のわかる方には、絶対のオススメです。