8月17日(土)

杉原志啓さんによる「日本のポピュラー音楽受容史」3回目は、いよいよ花のバブル80年代。チェッカーズにしろマドンナにしろもちろん知っているのだけど、逆にかえって中身に対する理解は薄くなっている時代だ。理由は二つある。

まず私の方の事情から。マイルスの復帰に象徴されるように、1980年代ジャズシーンは今とは比べようも無いほど活況を呈していた。そこにバブルを背景とした企業メセナの動きが後押しし、JT主催「ライヴ・アンダー・ザ・スカイ」、日本TVによる「マウント・フジ・ジャズ・フェス」など、日本各地で今では信じられないほど多くのジャズ・フェスティヴァルが催され、ジャズ喫茶店主としてはそれこそ「Jポップなんぞ聴いているヒマはない」状況だったのだ。

また、これは杉原さんもていねいに説明されていたが、ウォークマンの誕生に代表される「音楽の個人消費化」が進み、一昔前のように「一家団欒でTVの歌謡ショーを観る」ような状況が無くなって、世界的に「国民歌手」のような存在が消滅したのがこの時代なのだった。つまり言うところの「蛸壺化現象」の萌芽がそろそろ見え出した頃で、ジャズファン、ポップスファンはじめ、さまざまな音楽ジャンルのファン層が分かれ始めた時代でもあった。

だから、それこそTVで垣間見たことこそあれ、チェッカーズの映像をシッカリと“鑑賞”したのは今日が始めて。いや、驚きました、彼らめちゃくちゃ上手いじゃないですか。歌も演奏も、そしてダンスを含めたステージングのすべてが“プロ”の仕事。なんというか、その方面に詳しくない私にとっては「これで十分」の内容なのだ。つまり、1960年代に始まった「洋楽輸入」時代を経て、80年代に至り、ようやく「ニセモノ感」のないミュージシャンが誕生したことを実感いたしました。

で、思ったのだが、仮にこの時代に私が思春期を迎えており、ジャズなどという業の深い音楽に触れていなかったとしたら、けっこうフミヤファンになっていたりしてもちっともおかしくないのだ。このところ久しく音楽関係者たちの間でささやかれている「若者の洋楽離れ」も、理由の無いことではないと思った。「本場もの」を知らなければ、彼らで充分なのだ。そしてそれだけの実力をチェッカーズは備えていたように思える。

また、こうした状況は現代ジャズシーンを考える上でも示唆に富んでいるように思える。つまり、100年に及ぶジャズ史を知らない現代の若い音楽ファンが、とりあえず目の前にある「ジャズ」を見聞きしたとしたら、「これで十分」と思うのもわからなくは無いと思ったのだ。

話は変るが、ジャズ喫茶で日本のポップス受容史の講演を行うことに「どうして」と思われる方々がおいでのことは重々承知しているが、これには訳がある。というのも、1990年代以降“ジャズのポストモダン現象”などと言われるように、それまでの“ジャズ史”では理解しにくい状況が21世紀の現在までずーと続いており、中には「ジャズは死んだ」などというつぶやきもささやかれている。

こういうときはちょっと視点をズラし、たとえばジャズを周縁諸ジャンルの音楽の中に置いて見るとか、あるいは、日本の洋楽受容史全体のパースティクティヴの中でジャズの位置を探るといった「回り道」が必要ではないかと思うのだ。「いーぐる連続講演」がここ数年ジャズだけでなく、ヒップホップやらワールドミュージックの方に触手を伸ばしているのもこうした理由による。

で、個人的に今回の杉原さんの講演は「現在ジャズが置かれている状況」を考える上で非常に大きなヒントを与えてくれたように思う。もっとも、そうした「企み、狙い」とは別の次元でも、純粋に音楽ファンとして今回の講演が面白かったのも事実。たとえば、初めてマドンナの《マテリアル・ガール》の歌詞を熟読し、そのあまりのみもふたもなさに脱力したのは私だけではないだろう。

次回、現代Jポップ、いよいよ「モモクロ」登場かな。