8月24日(土)

4回に渡って行われた杉原志啓さんによる「日本のポピュラー音楽受容史」、私にとってはたいへん楽しく、また勉強になった講演だった。なにしろジャズ喫茶オヤジにとってAKB48など、名前こそ知ってはいるがその実態はまったくのナゾ。杉原さんのていねいな紹介で彼女たちが現代日本のポップス・シーンにおいて極めて大きな存在であることを知ると同時に、このグループに象徴されるように、日米の音楽文化の違いも明確に理解できた。

こうした事実はそのままではないかもしれないけれど、日米のジャズ受容における違いと何らかの関わりがあるかもしれない。ただ直感としては、違いの質は「同形」ではないようだ。なにより「ジャズ」はポピュラーな音楽とは言えないから。

まずは杉原さんの解説から。杉原さんによれば、アメリカにおけるポピュラー音楽の価値基準は、何よりも技術的なレベルが重要で、基本的な歌唱力の伴わないスターなどありえないという。他方、日本ではごくフツーの女の子、男の子でも、スター足りえるのだ。この違いは大きく、かつ本質的だ。

杉原さんに言わせれば、日本人は言葉本来の意味での「スター」を求めてはいないのではないかと言う。確かにこの意見を証明すように、AKB48あるいはモモクロのファンたちは「応援」すると言う。たとえばジャズファンでハービー・ハンコックウェイン・ショーターを「応援する」ファンなんて聞いたこと無い。

それも当然の話で、彼らは私たちが応援したりしなくても立派なミュージシャンであり、私たちファンは憧れこそすれ「応援」などという大それたことは考えたこともない。スポーツなどと違って音楽で応援というのは、ミュージシャンとファンが同格、同じ仲間であるという意識が無ければありえないのではなかろうか。

それはそうと杉原さんの解説で重要なことは、それはあくまで「違い」であって、日米どちらの文化が優れているという話ではないという。これはまったく同感で、ずいぶん昔ある講演者が、なんとベートーヴェン!とAKB48を比較し、暗にAKB48を批判したことがあったが、私などはAKB48の実態も知らずではあったけれど、「いったいどういう基準でベートーヴェンAKB48を比較するのですか?」と大いに疑問を持ったものだった。

そういう意味では、当たり前のことであるけれど、杉原さんは悪しき洋楽崇拝者でもなければ芸術至上主義の弊害にも陥っていない、まっとうな音楽評論家である。

ちなみに、個人的意見を言わせていただければ、決して悪い意味ではないけれどAKB48のファンは「音楽ファン」というわけでもないように思う。ただこれも微妙で、私たちはラジオ、レコード、CDの普及以来、「音だけ」を「音楽」と思う習慣が身についちゃったけれど、かつて音楽はそれが演奏される場所でしか体験できず、そして教会で聴く聖歌隊のコーラスや祭り囃子などは、音響だけではない視覚や嗅覚などまで含めた5感全体の体験だったはずだ。

そのことを示唆するように、AKB48に限らず、KAT-TUNなど、いわゆるJポップはライヴが大きな意味を持っているようだ。これはジャズにも当てはまり、ここ数年CDの売り上げは下降線を辿る一方だけど、ライヴの動員はむしろ増えている。私は、これはいいことだと思う。

ただ、気になったのは、聞く所によるとこうしたJポップファンは「応援」の対象を限定する傾向があるようで、それはすなわち触れる音楽(体験)の限定=蛸壺化現象という筋道を辿ることになる。これはモッタイナイ。まあ、「応援」ということなら巨人ファンがタイガースも応援しちゃったりしたらおかしな話なわけで、仕方ないのかなあ・・・

どうも話がとり止めもなくなりつつあるけれど、それは今いろいろな発想が頭の中で動き回っているからで、つまりはそれほど杉原さんの講演のインパクトは大きかったということ。いずれ今回の体験、知見をまとまった形で書いてみたいと思う。

最後にいくつかメモ的に書いておくと、AKB48のDVDがまったく想像を超えたもので、つまり「物語構成」となっていて、それがいまどきの若い人たちの琴線に触れるように作り込んであって、彼女たちの仕掛け人である秋元康のただならぬ才能をいまさらながら実感しました(ちょっと前に見た、NHKの秋元の密着ドキュメントも面白かった)。

また、KAT-TUNのトータルで数十万人を動員するという大規模ライヴの映像を見て、こうしたものとジャズは同じ音楽とは言えまったく別物という思いを再確認。ただ、誤解していただきたくないのは、彼らよりジャズが上等な音楽だとは特に思ってはおりません。要するに、ファン層が求めているものがまったく違うということ。

改めて「音楽っていったい何?」という思いを起こさせてくれたという意味でも、杉原講演の意味は私にとって大きなものでした。杉原さん、ありがとうございます!