1月25日(土)

以前『ジャズ構造改革』(彩流社刊)で物議を醸した3人組、中山康樹さん、村井康司さんそして私で、村井さんの新刊『JAZZ 100の扉』(アルテスパブリッシング)を肴に、ジャズのついて縦横に語り合った。テーマは村井さんが提案した「インプロヴィゼーションとアンサンブル」。

このテーマ設定を聞いたとき、今回は日ごろ考えているところをこの場を借りて展開してみようと思い、事前にメモを作っておいた。以下がそれ。



大昔、寺島さんと「即興か曲か」で大論争を繰り広げ、そうした中から私のジャズ評論家稼業が始まっており、また、即興の神様と言われたパーカーの大ファンということもあって、私は即興第一主義者と思われているようですが、それは必ずしも正しくありません。

今日のテーマを先取りすれば、私はそれが即興だろうが書き譜であろうが、結果さえ良ければそれでOKなんですね。つまり「どう聴こえるか?」が興味の中心であって「どうやったか?」にはあまり関心が無い。

とはいえ、私にとっての「良い結果」とされる音楽についてはいろいろと考えるところがあります。大前提として、私は「音楽の普遍性」ということには若干疑問を持っており、つまり、私にとっての「良いポップス」あるいは「優れたクラシック」と「良いジャズ」の評価軸は同じでは無いようなのです。

この話をすると長くなってしまうのですが、というか「良いジャズ」って、結局ジャズって音楽の定義みたいなこととも繋がるのでたいへんにことばにするのが難しい。

とりあえず言ってしまえば、私がジャズのどこに惹かれるのかというと「ミュージシャンの声」なのですね。もちろん「声」とは比喩です。ですからどうしても私にとってのジャズは「声の聴こえる音楽」ということになり、いくら気持ちよく聴こえても「演奏者固有の『声』が聞き取れないようなものは、私はジャズとは思っておりません。

大急ぎで付け足せば、ジャズでなくても良い音楽、好きな音楽はいくらでもあります。また、たまたま『声』という比喩を使いましたが、『ロックの声』と『ジャズの声』は、うまく説明できないのですが、私にとっては少し違うもののように思えます。この辺りたいへんに難しく、かつ私の音楽的興味の中心ですので、ぜひ今日はお二方のご意見を拝聴したいと思っております。

話しのきっかけとしては、ジャズにおける「アンサンブル」の具体例を村井さんから示していただきたいですね。



もちろん鼎談形式だからこの通りにしゃべったわけではないけれど、私が言いたかった事はほぼ網羅しており、実際にこの趣旨に沿った発言をした。

村井さんの発言主旨は、オーネットとドルフィーの共演盤『フリー・ジャズ』(Atlantic)を題材に「実際に大勢のミュージシャンが集団で即興演奏をしようとすれば、事前に何らかの打ち合わせが必要となり、たとえばスタン・ゲッツの即興のような按配には行かず、むしろ一種の“アンサンブル”となってしまう」という卓見で、まさにおっしゃるとおり。

かたや中山さんの発言主旨は「ジャズは終わっているが、だからこそ見えてくるものがある」という、『ジャズ構造改革』以来の一貫した主張。正直、この「潔さ」は見習わなければいけないと思う。また、冒頭中山さんの「この新著で村井さんはそれまでの『ものわかりの良い評論家』の仮面を脱ぎ捨て、ホンキで勝負に出ている」という指摘も、まったく同感。

つまり総論的には村井さんの主張も、中山さんの主張も、「言っていることは理解」出来ることばかり。しかし、「そうですね、そうですね、異議なし。」のシャンシャン株主総会ではいけないと思い、寺島さんを見習い(笑)、あえて「ヒール」の役どころを買って出て突っ込みを入れる(もっとも中山さんに言わせれば、「買って出なくても、もともとヒール」というしごくごもっともな指摘もあったけど・・・)。

たとえば村井さんが好きなドルフィー演奏のベスト3に入ると前置きして紹介した、ジョージ・ラッセルのサイドマンにおける《ラウンド・ミッドナイト》を、「ヒネった選曲」と驚いて見せたり、あるいは、終盤話題となったロバート・グラスパーを「ジャズじゃない」と言ってみたり・・・

まあ、この件について村井さんは「グラスパーはライヴではいい演奏するのに、アルバムはつまらないのはどうしてだろう」と疑問を提示し、それに対して中山さんが「ジャズマンならライヴでいいところを見せる(見せられる)のはアタリマエで、それはグラスパーに対する擁護にはぜんぜんなっておらず、要するにグラスパーはタダのフュージョンだ」と一刀両断。それにしても、ある世代における「あれはフュージョンだ」は一種のサベツ用語だったり(笑)・・・。

私はと言えば、訳知り顔で「グラスパーは承知の上で、つまり『いまどきのファン層』の好みを計算し、あえてCDではわかりやすい演奏をしているのでは・・・」などと言ってみたけれど、確信はない。また、個人的には音楽としては楽しく聴けたけど「コレはジャズでは無い」という感覚は、中山さんとまったく同じ。まあ、“フュージョン”とも思わなかったので思わず“ブラコン”と口走ったら、村井さんから冷たく「死語です」と突き放され、シュン。

で、たまたま観に来てくれたcom-post同人柳樂光隆さんに、「柳樂さんは日頃からグラスパーこそこれからのジャズシーンの中心人物」というような主旨の発言をしていたと思うけれど、その辺りどう思うのか? と質問してみたが、回答ナシ。これは、近々シンコー・ミュージックから刊行予定の、グラスパーを中心とした書籍をプロデュースしている柳楽さんにしては不可解な態度だと思った。本来なら、当然説明なり反論があってしかるべき。せっかくの新刊の宣伝チャンスなのに、こうした無反応はあまり褒められたものではないのでは・・・

結論としては、今回の鼎談、個人的にいろいろと考えるところがあった。まず、当初村井さんの本を読んだ時の印象として「村井さんは従来インプロヴィゼーションが重視されがちなジャズにおける、アンサンブルの相対的な再評価を狙っているのかな」と単純に思っていたが、村井さんの解説はより深く、むしろ「単純な、即興と作曲の二項対立を見直し、ジャズにおいては即興的要素と作曲的要素が複雑に絡み合っている」ことを指摘したかったようだ。これは私などは見過ごしていた視点だけど、まったく同感。

また、中山さんのレトリカルな「マイルスだけ聴いていればよい」という発言も、中山さんの「一流主義」のスジを貫いた上での態度とすれば、私とは違うけれども、これも納得。というか、私は比喩的に言えば、「パーカーもマクリーンも聴いてこそジャズファン」という立場。

より具体的に説明すれば、マイルスなど一流の人間は得てしてジャンルを超えてしまっているので、マイルスファン必ずしもジャズファンとは言いがたいという考え。つまりアートとしてのレベルは圧倒的にマイルスの方が上と承知で、たとえばドナルド・バードなり、アート・ファーマーもご賞味してはいかかが? という、いかにもジャズ喫茶店主的スタンス。

まあ、この辺りいずれ単行本の主題としてじっくり考えを詰めてみたい。また、まったくどちらが良いとか上とか言うことではなく、村井さんの趣味は私に比べれば「変化球好み」のように思えたものだ。ある意味、私の好みの方が「凡庸」なだけにジャズ喫茶向きということが言えるのかもしれない。

また、打ち上げの席で、最近講演に良く顔を出してくれるお若い方々と突っ込んだ意見交換が出来たのも大きな収穫だった。そう、私たちの発言、行動に意見、関心、異論、疑問、質問などある方々は遠慮なく打ち上げに参加していただきたい。こうした場での直のコミュニケーションこそ、シーンを支えるものだと思っています。