2月15日(土)

昨夜来の大雪も無事に上がり、「吹雪の中でESPを聴く!」という、「英雄的」状況は回避されましたが、やはり相手はESP、この「問題含み」なカタログは、須藤輝さん、吉田隆一さんという各々一癖も二癖もありげな面構えのお二方の、それぞれがヒジョーに興味深い「愛」の形を露呈させてくれました。

まずは失礼ながら「口数の多い」吉田さんから。この方の語りの「情報量の多さ」はすでに体験済みながら、改めてその「質の高さ・深さ」に圧倒されました。発言量に見合うように私の言いたいことも山のようですが、思い切り要約してみましょう。

それは、私が常日頃考えている「ジャズをどう語るか」あるいは「どう伝えるか」についての非常に参考(というか、究極の到達点でしょうね)になる視点です。吉田さんは、須藤さんがおかけになる「問題含みなESP盤」について、送り手(演奏者)の立場、受け手(ファン)の立場の双方について、冷静かつ的確な分析をしてくれたのです。

プロ・ミュージシャンならではの精密かつ具体的な奏法の分析から始まり、それが音楽表現とどう結びついているのかという実証的かつ的確な指摘は、私のような楽器も出来ず、譜面もロクに読めない「一般ジャズファン」にとって実にありがたい。

そして何より大事な、その演奏が聴き手の立場に立ってみたらどうなのか。これも、想定されうる平均的ファンのスタンスと同時に、吉田さんご自身の音楽に対する「愛」の形がさりげなく吐露される。まさに理想的音楽評論のあり方です。ハッキリ言って、これがちゃんと出来るジャズ評論家は極めて少ない(言うまでもありませんが、私自身大いにその欠落部は自覚しております・・・まあ、いい訳めきますが、それは出来る方にお任せ、と思っております)。

説明すれば、「奏法分析」あるいは「楽理分析」の得意な「ミュージシャン評論家」は掃いて捨てるほどいますが、おおむねそれらの方々は「それらがどう音楽表現と結びついているか」あるは「結果として聴き手にどのような情動を喚起させるのか」といった最も重要な視点が欠落している場合が多いのです。ましてやその表現の音楽的な「深さ」「意味合い」にまで的確な言及の出来る人など、村井康司さんなど一部の優れた方々を除き、めったにおられない。

というか、そうした視点の所在自体を認識しておられないような「アマチュア・ミュージシャンの似非ひょーロン」の「アタマでっかちぶり」に長年辟易させられたきた私としては、吉田さんのクレバーさはまさに溜飲の下がる思い。吉田さん、アタマの中身を完全に吸い取りきるまでは、当分手放しませんよ(笑)。

さて、須藤さんです。この方のESPに対する(偏)愛ぶりが一方ならぬものであるのは第1回目のESP特集で経験済みですが、今回はそのよって来るゆえんのような部分まで垣間見られ、やはり2回目をやって良かったとの思いでいっぱいです。

ある意味、そのスタンスは、(私から見ればですけれど)吉田さんと(逆方向からですが)カタチは似ているように思える。つまり、吉田さんは冷静な分析から入って、結果として(内に秘めた)熱い音楽への「愛」に至り、須藤さんは表面的には控えめであれ、明らかに対象に対する沸々と煮えたぎるような愛に満ちたスタンスから入りつつ、吉田さんとの「面白問答」(これが実に可笑しいのですが・・・)を通して、意外(失礼)なクールネスが顔を出す。要するにお二方とも、本質的な意味でバランス感覚に優れているのだと思うのです。それは冷静な「自己客観視」の能力でもあるでしょう(私も学ばねば・・・)。

お二方のびみょーなズレ加減も含め、この組み合わせの面白さは筆舌に尽くしがたい。まさに談論風発、抱腹絶倒の3時間でした。内心いつまでも聞いて居たかったのですが、「営業」もやらねばならず(というか、それが本業なので)、やむなく終了、次回が楽しみ!

このところアニソンという未知の分野に目を開かれ、岡本郁生さんの歴史・社会状況に対する深い洞察に満ちたラテン・ミュージック講演から、今回の須藤さん吉田さんのお二方による極めて興味深い音楽談義と、「いーぐる連続講演」を通じて得られる新知識・新情報の質的アップは目覚しいものがあります。

ヘンな話しですが、素敵なジャズマンに出会った興行主が「ゼッタイ、このミュージシャンは手放さないゾ」と思う気持ちが切にわかる今日この頃です。まあ、岡本さんには連休明けになにかラテンものを、須藤さんにはBYGを、そして吉田さんにはすでにエリック・ドルフィーの連続講演の予定が決まり、まさに「いーぐるレーベル」は順風満帆です!

あらためて、須藤さん、吉田さん、ありがとうございました! 今後もよろしく!!!