11月8日(土)

八田真行さん、久々の登場。親子以上に歳の離れた八田さんだが、彼のジャズ観はいろいろと共感するところが多い。それをひとことで言ってしまえば「ジャズわかってるなあ」ということ。いまどきこういう言い方は極めて評判が悪いことは百も承知だが、そうとしか言いようがない。これは必ずしも経験だけではないようだ。あえて言えば、事物の本質を直感的に見抜く力とでも言うのか。要するに、ジャズという音楽の多面性のうち、どの辺りがキモなのかを見抜く力と言ってもいいだろう。

そうした八田さんのやる講演だけに、いまさらながら「ジャズの聴き所」を再確認させられる良い講演だった「レフト・バンク・ジャズ・ソサエティ」の名は以前から知っており、ケリーの3枚組みアナログ盤など愛聴していたが、それが非営利のジャズ鑑賞団体の名称だとは今日まで知らなかった。恥ずかしながら、ライヴ・ハウスの名称なんだろうぐらいの認識しかなかったのだ。

そしてこの「鑑賞団体」のレベルがえらく高く、それが端的に現れているのがタルい演奏だと拍手しないのである。これはキビしい。自然とジャズマンの気合も入らざるを得ず、ライヴならではの名演が目白押しだ。

「ライヴならでは」とはジャズ特有の醍醐味で、演奏しつつ次第に興が乗り、あるいは「追い詰められ」、その結果当初の凡演が名演に化ける現象である。今回も、出だしはアイデアに詰まって模索していたジャズマンが、ある一瞬を契機として突如目覚める「ライヴの興奮」を堪能させていただいた。やはりジャズの名演は聴衆と「場」が作るのだろう。ヌルい聴き手ではタルい演奏しか引き出せないのだ。想像するに、バップの現場はいつもこうした緊張がジャズを急速に高みに押し上げていったのだろう。

打ち上げの席でも実に興味深い話題で盛り上がった。それは「いまどきのファン」は強い個性だとか「アク」の強さといった、かつてのジャズが色濃く持っていた特徴、長所が嫌なんじゃなかろうかというもの。確かに近頃話題となる「ジャズ」は見事に漂白・洗練・クリーニングされた人畜無害なものが多い。要するに、かつて「芸術」と言われたものが持っていた、個人の存在自体を揺るがすような「不穏さ」や「不気味さ」あるいは「非日常的なもの」が忌避されているのだろう。

もちろん「芸術」の概念自体、変容を迫られざるをえない。こうした風潮が新たな景色を見せてくれるのか、あるいは「揺り戻し」があるのか、まさに私たちは面白い時代に生きているのだと思う。