3月19日(土曜日)

林田直樹さんによる「横断的クラシック講座」第3回『1930年代〜戦争前夜の音楽』は、相変わらず刺激に満ちた素晴らしいものだった。おそらくこの思いは私だけでなく、参加された多くのお客さま方共通の実感だと思う。というのも、必ずしもわかりやすいとは言えない演奏も含め、最後までほとんどのお客様が席をお立ちになることなくじっくりと演奏に耳を傾けていたからだ。

個人的にも本当に有意義なイヴェントだった。経済学の用語で言うならまさに『限界効用の最大値』ではないけれど、「砂漠の一杯の水」のように林田さんの的を射た選曲は身体に浸み込んで来るのだ。もっともそれは、私のクラシックの素養の無さと裏腹の関係にあるのだけれど、それだけに面白く興味は尽きない。

以下箇条書き的に感想を書き連ねてみよう。

まず、タイトルどおり「戦争前夜の音楽」という実感をヒシヒシと感じた。もちろんそれぞれの楽曲は多様(当日の選曲リストは後ほど掲載)なのだけれど、大づかみな傾向として大戦間の緊張した世相が感じられるのだ。

ジャズ喫茶をやっているとは言え、私はふだん家ではクラシックとワールド・ミュージック系の音楽しか聴かない。しかしクラシックのレパートリーは極めて狭く、バッハの鍵盤楽曲が大半。たまにモーツアルトのピアノ協奏曲とかドビュッシーなども聴くけれど、近代のものは作曲家の名前ぐらいしか知らないと言って間違いない。

そうした極めて偏った知識の印象では、20世紀ともなるとクラシック音楽は次第に衰退して来た、といった通俗的理解しかなかったのだけれど、今回1930年代の演奏をまとめて聴いて、それがまったくの思い込みでしかなかったことに気付かされたのだ。

つまり、バッハやモーツアルトは「音楽としての力」こそ時代を超越しているけれど、音楽を含む芸術表現一般が持っている「時代を表象する力」においては、どうしたって「過去形」とならざるを得ない(この問題は当然ジャズにも当てはまるだろう)。そういった意味で、今回聴かせていただいた音楽には「今の音楽」としての「切実感」が感じられたのだ。

それこそ「名前ぐらいしか知らない」作曲家達の、時代の空気を反映した音楽の力はかなりなもので、たとえば「春の祭典」ぐらいしか聴いたことのなかったストラヴィンスキーの「詩篇交響曲」は、それまでの彼に対するイメージを覆すもの。さっそく購入を決める。

また、これも「名前だけ」で、一曲も作品を聴いたことのなかったヒンデミットの「画家マチス」も良かった。「どういいのか」はまさに「その道の人間」ではないのでなんともことばにし難いのだけれど、というか、その辺りを確かめるためこれも購入リストに入れる。

そして、圧巻は最後に林田さんがかけたショスタコーヴィッチの「交響曲第4番」。彼についてはむしろネガティヴな印象しかなかったのだけれど、やはり「聴かず嫌いはいけません」でしたね。これもどういいのかは巧く言語化できないが、音楽を通じて表現される一種の「切実感・切迫感」は圧倒的。これもまたじっくりと腰を据えて聴くために購入を決定。

最後になったが、この時代のクラシック作曲家がジャズのことをそうとう意識し、影響も受けていたという事実は実に新鮮。ギル・エヴァンス経由のマイルスへのクラシック音楽の影響やらパーカーが現代音楽に興味を持っていたことなどは当然知っていたが、その逆の影響についてはあまり実感が無かったのだが、今回の講演でその辺りも「確かにそうだな」と納得させられました。

ともあれ、林田さんの講演は実に実り多く、これからもずっと続けて行くつもりです。というもの、林田さんと私とは専門領域こそクラシックとジャズと違うのだけれど、「音楽を含む芸術表現一般を横断的に総覧しなければ、個別的対象の本来の姿も見え難い」という基本認識においてまったく一致しているので、何をやっていただいても間違いがないと思うからです。

打ち上げの席も大いに盛り上がり、次回講演テーマがいくつも挙がって何からやっていただくか迷うほど。これは決定次第お知らせいたします。林田さん、次回もよろしく!