【「ジャズ評論」についての雑感~その1】

 

 

私にとって最新ジャズ動向の重要な情報源の一人である柳楽光隆さんがツイッター上で、「ジャズ評論史」という観点から寺島靖国さんや私についていろいろと面白い分析をされているようなので、「ジャズ評論」について個人的雑感をメモ的に書いてみます。

 

まず、1980年代後半に寺島・後藤がセット販売のようにして既成ジャズ評論家とは一味違ったジャズライターとして登場したのは、私たちが共にジャズ喫茶店主という、レコード会社やジャズメディアの意向に左右されず自由に発言できるスタンスにいたことが一番大きな要因でしょう。

 

当時、毎月相当数の新譜・旧譜を発売していたレコード会社のライナーノートを主な収入源としていた既成ジャズ評論家は、当然レコード会社の意向には逆らえません。また、私たちジャズ喫茶店主は、まだジャズメディアで大きな力を持っていた『スイングジャーナル』誌とも広告主として対等な付き合いをしていたばかりでなく、レコード会社の提灯的な同誌の記事に対しては批判的な立場の店主が多かったのです。

 

とは言え、そのスイングジャーナル誌の編集長であった中山康樹さんが、私たちジャズ喫茶オヤジをライターとして起用した時は正直ちょっと驚きましたが、後に氏の述懐によれば、「既成ジャズ評論家の書くものがちっとも面白くないから、ジャズ喫茶オヤジの歯に衣を着せぬ発言が欲しかった」と言っているのですね。編集者としての中山さんの懐の深さを示しています。

 

そうした状況の下、寺島さんは持ち前の優れたサービス精神と卓越した文章力によって、ジャズ本としては異例とも言える十万部越えのヒット作『辛口ジャズノート』を発表され、一躍ジャズシーンのトップに躍り出たのです。

 

寺島さんの活躍のおかげで、私はまさに「柳の下の2匹目の泥鰌」として最初のジャズ本『ジャズ・オブ・パラダイス』を上梓することが出来、これも文庫化を含めれば5万部近い発行部数を数え、その余波を駆って書き下ろした講談社現代新書の『ジャズの名演・名盤』は2度の改訂版を含め、10年以上に及ぶ累積十万部を超すロングセラーとなりました。

 

こうした経緯を振り返れば、柳楽さんがおっしゃる通り、当時「ジャズ喫茶オヤジ」がジャズ評論界に一石を投じたのは間違いないでしょう。

 

また、柳楽さんが私のことを「D.J.的」と評されているようですが、これも納得です。一部のジャズファンはD.J.のことを、「自分は何も作らないで他人の音楽を消費する」と批判的に見ているようですが、これは若干近視眼的な発想ではないでしょうか。

 

例えば編集者のことを、自分は書かないで作家に書かせていると批判したら、もののわかった方なら、「それは違うよ」とすぐに理解されるのではないでしょうか。ジャズ喫茶のレコード係は、編集者が作家と読者の好ましい中継ぎをするように、ジャズファンとジャズの仲立ちをしているのですね。

 

D.J.も素材や「場」こそ異なれ、音楽と聴き手の仲立ちをしているということではジャズ喫茶レコード係と変わらず、また、「作品」と「受け手」の中継者という視点で眺めれば、編集者、ジャズ喫茶レコード係、クラブD.J.は、みな同じスタンスでそれぞれの仕事をこなしているのです。

 

とは言え、編集者やジャズ喫茶レコード係が文芸作品やジャズに対し、それ相応のリスペクトを抱いているのに対し、果たしてクラブD.J.はその辺りどうなのだろうという疑問はあるのかもしれません。1990年代、UKクラブシーン発の「踊れるジャズ」が日本にも流入し、アシッドジャズであるとかクラブジャズなどと通称されていたようですが、D.J.によって紹介されたこうした「ジャズ」は、伝統的な“ジャズ”の文脈から切り離され「踊れるかどうか」という「新基準」で価値判断されていたことが前出の「疑問」に繋がるのでしょう。

 

確かに1940年代半ばにチャーリー・パーカーによって発明された“ビ・バップ”以降の「モダンジャズ」の文脈から眺めれば、「踊れる」という価値基準はいささか異様とも受け取れるのかもしれません。しかしそれはまさにジャズ史を近視眼的にしか見ていないことから起こる錯覚ではないでしょうか? 

 

“ビ・バップ”以前に猖獗を極めたスイング・ブームにおける花形ビッグバンドは、ダンスバンドとしての機能も果たしていたのですね。また、従来「芸術ジャズ」と思われていたパーカー・ミュージックで踊るシーンが、熱心なパーカー・フリーク、クリント・イーストウッド監督の映画『バード』の中に描かれていたことも、忘れてはいけないでしょう。

 

(続く)