【「ジャズ評論」についての雑感~その2】

 

 

柳楽光隆さんの「日本ジャズ評論史における寺島・後藤の功罪」、そして「後藤さんはD.J.的だ」というツイッター発言に触発され、思いつくまま感想を書き連ねてみます。前回は、寺島靖国さんにしろ私にしろ、ジャズ喫茶店主たちが1980年代後半にジャズライターとして注目されたのは、私たちが「業界利害」の圏外にいたことが大きかったこと、そしてジャズ喫茶のレコード係は、本質的に「編集者」的スタンスに立っていることが「D.J.的」であることに繋がるという話をしました。今回はその続きとして、私の「D.J.体験」を思い出してみようと思います。

 

私が「D.J.的」であることを自覚したのはずいぶん後になってからで、最初に(無意識のうちに)「D.J.的発想」を学んだのは必要に迫られてのことでした。右も左もわからないままジャズ喫茶を始めてしまったので、最初に困ったのは「選曲」でした。幸いジャズに詳しい友人、故茂木信三郎君がアルバムのセレクトはしてくれたので、少ないながらマイルス、コルトレーンエヴァンスといった「ジャズ喫茶常連連中の名盤」こそ最低限度揃えたとはいえ、それらをどういう順序でかけたらよいのかはまさに暗中模索。

 

そういう時は先人に学べで、とりあえずジャズ喫茶先達の老舗を探訪したのですが、名店「DIG」は常時リクエストが殺到しており、コルトレーンのインパルス盤など60年代当時の「人気盤」を知ることは出来たのですが、おそらくはリクエスト順を原則にアルバムをかけている様子で、率直に言って「選曲」そして「順番」の学習には不向きのような気がしました。

 

そこで目を付けたのが「DIG」のレコード係で鍛えられた鈴木彰一さんが独立し、渋谷道玄坂小路で開いた名店「ジニアス」です。この店は鰻の寝床のように細長く、レコードブースの向かい側に新譜が掲示されていたのですが、私はいつもかかっているアルバムが見えないようにブースに背を向け、新譜の壁を眺めるようにして座席に着きました。これはジャケットを見ないでプレイヤーを当てる「ブラインド」の訓練のためです。

 

ちなみにジャズ喫茶業界では、この「ブラインド能力」が業界内ヒエラルキーに大きな影響を与え、「Meg」寺島さんはいつも私に「後藤ちゃん、このテナー誰だかわかる」などと質問し「わからなきゃジャズ喫茶の看板外してもらおうか」などと挑発するのでした。そして実際ジャズ喫茶開業は私の方が早かったのですが、「耳で鍛えたテラシマさん」のブラインド能力に、新米店主の私は全く歯が立たなかったのです。

 

柳楽さんに言わせれば、寺島さんもまた「D.J.的」ということになるのですが、氏の「ブラインド的耳の良さ」は、D.J.的である必須条件のような気がいたします。付け加えれば、現在はどう考えておられるのかわかりませんが、当時寺島さんは「ジャズ史」的な事実関係にあまり興味がないようで、いわゆる「評論家的言説」に対して明確に拒絶反応を示していました。こうした一連の「傾向」を要約すれば、「頭で聴くジャズ」に対する反発とでもなるでしょうか。つまりはD.J.的である要件に「耳で聴くジャズ」であることが挙げられるでしょう。

 

当時私たちはまさに「紙のプロレス」ではありませんが「テラシマ vs ゴトー」の対立がジャズ雑誌等で面白おかしく喧伝され、私自身寺島さんの対極に位置していると思い込んでいたのですが、今になってみれば、この図式自体が名プロデューサー寺島さんの掌の上での踊りであったばかりでなく、実のところ私もまた大きな眼で見れば「テラシマ的」な傾向、つまりD.J.的発想の持ち主だったようです。要するに標榜する価値観こそ異なれ、二人は共に「耳派」に属していたのです。

 

それはさておき「ジニアス体験」に話を戻すと、毎週のように通ううち面白いことに気が付きました。既に知っているアルバムが実に活き活きと聴こえるのですね。もちろんそれはヴァイタボックス改造の迫力あるスピーカーのせいもあるのですが、どうやらそればかりではないようなのです。具体的に言うと、アルバムの出だしが実にカッコよく聴こえるのですね。そうなれば当然そのアルバム自体の評価が高く感じられるものです。

 

最初は不思議に思っていましたがそのうち理由が解りました。それは「前後関係が聴こえ方に影響している」というシンプルな事実です。これは食べ物のことを考えればわかりやすいでしょう。コース料理が出す順序でそれぞれの味を引き立てているように、例えばコルトレーンの熱狂的演奏の後にバレルのブルージーなギターがかかれば、その「対比」によって両者ともに良さが引き立つという仕掛けです。

 

評論家的スタンスなら、ケニー・バレルのウォームかつブルージーな演奏はそれ自体で評価されるべきでしょうが、ジャズ喫茶における実際の聴取体験で重要なのは、この演奏が例えばコルトレーンなどの刺激的アルバムの後に登場することによって、「より価値が増す」という「D.J.的事実」なのですね。こうした実践的なテクニックは、いくら「ジャズ史」に詳しくとも学べません。まさに「ジャズ喫茶的ジャズ観」と言っていいでしょう。

 

(続く)