【「ジャズ評論」についての雑感~その3】

 

「昔はDJの目的は音楽をかけることだった。ヒット曲になるかもしれない曲をかけて、それで盛り上げる必要があった。客が興奮するようなかけ方をしないといけなかった。ただ音楽をミックスするだけじゃなくて、魅力的なかけ方をしないといけない。俺はそうやってDJを学んだ」

 

ジェフ・ミルズというD.J.の発言ですが、これはそのままジャズ喫茶レコード係としての私の体験に通じます。言い換えてみましょう「ただジャズ・アルバムをかけるだけじゃなく、そのミュージシャンの演奏が魅力的に聴こえるようなかけ方をしなけりゃいけない、私はそうやってジャズ喫茶レコード係の技術をジャズ喫茶の先輩たちから学んだ」

 

たまたま私は「ジャズ評論家」と呼ばれる仕事もしていますが、ジャズにおけるスタート地点は「評論」ではなく、むしろ「D.J.」だったのですね。もちろんこれは「必要に迫られて」のことだったのですが、幸運なことにジャズ喫茶を半世紀も続ることが出来、また、「ジャズ紹介者」としても、今回の小学館さんとのお仕事で潜在的ジャズ人口の増加にいささかなりとも貢献出来たのは、私自身の気質が影響しているのかも知れないと、近ごろ思うようになりました。今回はこの辺りから私の「ジャズ評論観」をお話ししてみたいと思います。

 

私が若くしてジャズ喫茶を始めたので、「ジャズ好きの熱が嵩じて」の開業と思われることが多いのですが、実際はもっと「いいかげん」な動機でした。もちろんジャズに興味はありましたが、果たして「ファン」とまで言えるかどうかも、心もとない状態での開業だったのです。今となってみれば、そのことが様々なグッドラックに繋がっていたのですが、それはおいおいお話しいたしましょう。

 

昔のことなので今となっては「動機」の解明もあやふやなのですが、言ってみれば「ジャズって面白そうな音楽がある、しかしなんだか難しそう、、、それなら自分でジャズ喫茶をやってみればいいじゃないか!」ということだったような気がするのです。つまり「好奇心の対象としてのジャズ」なのですね。

 

もちろんその後立派なジャズ・ファンになってしまいましたが、「商売」という即物的かつリアルな経済原則が貫く現場からジャズに入ったことが、私のジャズ観に大きな影響を与えているように思うのです。その意味はまず「聴き手の実感から入る」ということですね。

 

この「実感から入る」ということを別の言葉に置き換えれば、第2回で触れた「耳派ジャズファン」ということになろうかと思います。これに対置すれば、いわゆる「ジャズ評論家」は「頭派ジャズファン」でしょうか。つまり「好奇心の対象としてのジャズ」ではあったのですが、私の場合はその“ジャズ”を「文献」によって理解しようという発想は無かったのですね。

 

当たり前のことですが、ジャズ喫茶のお客様は「頭で」ジャズを理解しようとして来店するわけではなく、「耳で」ジャズを楽しむなり「理解」しようとしておいでになるのです。そうした状況での「どうレコードが魅力的に聴こえるようにかけるか」という目的に、ジャズの評論やジャズ史的知識はさほど役に立たないのはお分かりですよね。必要なのは、お客様がジャズを「どう聴いているか・感じているか」を身をもって体験することだったのです。

 

常連のAさんはアニタのどこが気に入ったのか? B嬢はどうしてコルトレーンに惚れ込んでいるのか? それがわからなければ、ジャズ喫茶の経営は成り立ちません。「オレはマイルス命だぜ」といった「ファン気質」で続けられるほど、ジャズ喫茶稼業は甘いものではありません。

 

そもそもお客様方がミュージシャンのどこが気に入ってファンになっているのかということにある程度推測がつかなければ、先ほど触れたD.J.としての「選曲技術」など思いもよりません。感覚の技術を身につけるには、まず自身の感覚を「ジャズの価値観に沿って」磨かなければいけないのです。ここで重要なことは、“ジャズ”という私たち日本人にとって異文化の価値観を、「身体で」学ぶことなのですね。そして「感覚的なもの」は、「文献だけ」で身に着けることは出来ないのです。

 

そこで私が採った作戦は、実に基本的。とにかく「聴く」ことでした。しかしただ漫然と聴いていたのでは、いくら時間をかけてもあまり意味はありません。とにかくジャズを聴き始めたばかりの私にとっては、後に「ジャズ開眼」のきっかけとなったパーカーの演奏ですら、単なる「騒音」としか思えなかったのですから…

 

さて、今までさんざん「評論」について批判的とも受け取られかねない話をしてきましたが、当たり前のことですが、広い意味での「ジャズ評論」がジャズ理解にとってまったく不要であるはずがありません。この単純な「聴く作業」において、「評論のことば」が果たす役割は思いの外大きいのです。

 

「広い意味での」とか、「文献」ではなく「評論のことば」という言い回しをしたのには理由があります。私にとって最初の、そして実に有益だったジャズ理解のガイドラインは、「ジャズ評論」を読んで身に着けたのではなく、友人たちの「ことばによるサゼスチョン」だったのです。

 

というあたりで今回は一休み。次回は、その「有益なことばによるサゼスチョン」の中身について、お話ししたいと思います。