3月4日(土曜日)

林田直樹さんによるクラシック連続講演、既に7回目を迎えているが毎回いろいろと考えさせられることが多く、いまや私にとって欠かせないイヴェントのひとつとなっている。まずは講演内容のお話から。

トスカニーニだが、これは私がお願いしたもの。と言うのも、クラシック門外漢の私でも一応名前は知っているがあまり聴いたこともなく、またクラシックの世界での位置付け等についても「知っておきたい巨匠」の一人だから。これはジャズ門外漢がエリントンやパーカーについて抱いているイメージに近いのではないか。

毎度のことだが今回も眼からウロコ。まずはトスカニーニの位置付けについて。不勉強と言えばそれまでだが、私はなんとなく「もう一人の巨匠」フルトベングラートスカニーニを「並置」させてイメージしていたが、実はトスカニーニは1867年生まれでフルトベングラー1886年生まれと、ほぼ二世代も違うのだ。

また、作曲家はさておき、指揮者ならジャズ界の大御所エリントン(1899年生まれ)や、サッチモ(1901年生まれ)ともほぼ同世代という漠然とした印象も見事に裏切られる。トスカニーニフルトベングラーもジャズ誕生と言われている19世紀末以前に生まれているのだ。1920年生まれのパーカーに至っては半世紀も時代が違う。

そしてまた実際の演奏に対する印象でも驚きの連続。確かに録音年代の古さは感じられるものの、トスカニーニの演奏は信じられないほどモダンなのだ。林田さんは解説の中で、「後藤さんの“ジャズ耳”ではどう感じられたろうか」と言われたが、今まで聴いた指揮者の中ではもっとも「ジャズ的」に聴こえた。

それは圧倒的なリズムの切れ味で、もちろんジャズのような「アフター・ビート」ではないけれど、一般的な印象としてクラシック音楽が「余韻」をだいじにしているように聴こえるのに対し、トスカニーニの指揮は明らかにリズムのメリハリを強調している。というか、あえて「余韻」を断ち切っている。これは発見だった。

クラシック門外漢が言う「余韻」とは、荘重な雰囲気や荘厳な気分を生み出す厚みのあるオーケストラ・サウンドのことで、もっと一般化すれば、それこそが「クラシック音楽の一般的イメージ」と言ってもいいのでは無かろうか。そして面白いのは、後半に登場したフルトベングラーの指揮が、その「思い入れの濃さ」も含め、まさに私のクラシック・イメージの「大元」だったのだ。
二人の指揮者のサウンドの違いはオーケストラの違いも大いに関係しており、「文化的同一性」を背景としたフルトベングラー指揮するウィーン・フィルと、「テクニック第一」で集めらたトスカニーニ指揮するNBC交響楽団の違いの反映でもある。この話は両者の録音方法の違も含め実に示唆に富んでおり面白かったが、話を先に進めよう。

もちろん私も以前から二人が指揮したアルバムを何枚か持っており、大昔それらを聴いた頃の記憶として、伝統的フルトベングラーに対する革新的トスカニーニといった印象はあったものの、世代から言えばまったく順序が逆なのに驚かされたのだ。

それにしてもトスカニーニアヴァンギャルドだ。複雑な各楽器パートの動きを楽譜に忠実に「即物的」とも言いたくなるように鮮明に描き出すことで、作曲家の意図するところを再現している。そして面白いのは、そうした指揮によるワーグナーがぜんぜん別物に聴こえることだ。しかしこのワーグナーは実に新鮮。こうした態度はグレン・グールドがバッハの音楽について発言していることを思い起こさせる。

ちなみに、私にとってグールドの演奏も極めて「ジャズ的」に聴こえる。これもまた「逆説的」で、二人とも「即興」や「思い入れ」では無く、楽譜に忠実に演奏しようとしていることが「ジャズ的」に聴こえることの不思議。その謎は「即物的」という、一般的にはネガティブに捉えられている形容にあるような気がする。

この場合の「即物的」を別のことばに置き換えると、「クール&ドライ」。そしてこれはパーカーの音楽の本質でもある。そう、私はトスカニーニの演奏を聴いて真っ先に頭に浮かんだのはパーカーだった。しかしこれはさほど不思議でもないだろう。世代こそ半世紀も違うが、二人とも真性モダニストというところは共通している。

ともあれ、これがきかっけでトスカニーニをちゃんと聴いてみようという気になりました。そしてフルトベングラーも。

毎度のことだが、今回も打ち上げが実に濃密。と言うのも、今回は小針俊郎さんという私にとって「もう一人の欠かせない講演者」が加わってくれたから。このところ、小針さんにもレナード・バーンスタインなどクラシックがらみの講演をお願いしているが、驚いたことに(と言ってはおおいに失礼だが)小針さんはクラシック音楽の世界にも精通しているのだ。

ということもあって共通の知り合いなど思いのほか多く、大いに盛り上がったのだが、なんと私も含め3人とも亡くなられた音楽評論家黒田恭一さんと浅からぬ縁があったのだ。林田さんは「音楽之友社」時代の関わりで、また小針さんは「東京FM」の仕事がらみ、そして私は黒田さんが昔よく「いーぐる」来店され、いろいろとジャズやクラシックの話をしたことが縁。

私にとって黒田さんはオペラの面白さを最初に教えてくれた恩人でもある。今回林田さんも紹介したヴェルディの「椿姫」は黒田さんが最初に教えてくれたオペラで、私はそのCD(トスカニーニではない)を深夜閉店後の「いーぐる」で大音量で聴くことで「声の魅力」に開眼した。そしてそのときオペラは理屈も何もなく、非日常的とも思える声を聴く生理的快感がまず原点だとそのとき感じた。そしてこれはジャズにも通じる。結局、ジャズファンはパーカーやドルフィー、そしてマクリーンの「音」にシビれている。

ところで今回、林田さんとジャンルを越えて音楽に接する姿勢に共通点が多い理由が良くわかった。それは、今読んでいる最中なのだが、林田さんの最新刊『ルネ・マルタン プロデュースの極意』(アルテス)に書いてあるルネ・マルタンの考え方、そしてそれをわかりやすく解説している林田さんの発想が、まさに私がジャズについて日ごろ考えていることと同じだとわかったから。

これは声を大にして言いたいのだが、ルネ・マルタンはクラシックの祭典「ラ・フォル・ジュルネ」を成功に導き、毎年100万人をクラシック音楽に引き寄せた名プロデューサーなのだが、彼の発想、そして林田さんの音楽に対するスタンスは、そっくりそのままジャズ界にも当てはめて考えるべきなのだ。

だからこの本は「ジャズ評論家」必読。そして、たまたま明日「いーぐる」で開かれる「ジャズ喫茶シンポジウム」に参加されるジャズ喫茶店主の方々も、絶対に読んだほうがいい。近年、この本ほど私がジャズ・シーンに対して言いたかったことを代弁してくれた書物は無い。というわけで、林田さんと初対面の時から「音楽シーンに対するスタンスが一致」する理由が鮮明になりました。

というわけで林田さんの『クラシック連続講演』、ますます面白くなりそうです。