10月10日(土)

私の大好きなストーンズの『レット・イット・ブリード』に続いて、ビートルズの(これは必ずしもビートルズ・マイ・ベストではない)『アビー・ロード』のメドレーを聴き終わった瞬間、思わず「ロックはイギリスの音楽だ!」と「暴論」が頭をよぎった。すでに知っているはずのビートルズの音楽の質の高さは、それほど圧倒的だった。これは、たとえばマイルスの音楽が、好き嫌いを超えたレベルに到達しているのと同じことだと思った。
そして、以前、中山さんが村井さんと私との鼎談で「マイルスはジャズを超えている」と発言したことが思い出された。そのとき私は「いや、ジャズのほうが大きい」と反論したものの、中山さんの言いたいことは充分に理解できた。今回はその裏返しのように、中山さんは何も言わなかったが、私のほうが「ビートルズはロックを超えた一ジャンルだ」というフレーズが心の内をよぎったのだった。
お客様に対して横向きに着席していたため私は気がつかなかったが、正面から客席を観察していた村井さんによれば、予定時間を超過し、3時間半を経過した後の15分に及ぶメドレーの最中、お客様はみな私と同じように目を閉じて演奏に没頭していたという。まさに「音楽の力」だ。
中山さんは著書『ビートルズから始まるロック名盤』(講談社文庫)で、「ロックはイギリスの音楽だ」などとは言ってないが、それでも「ロックの大本であるブラック・ミュージックの誕生地であるアメリカにビートルズが“逆上陸”した結果、アメリカのポップスは変質を余儀なくされた」という主旨のことは書いている。そして、「ビートルズが好きなようにやっているのに対し、アメリカ勢はそれぞれ“策”を凝らさざるを得なかった」という意味合いも述べている。今回の中山さんの選曲は、そのことをいやというほど実感させられた。
もちろん64年の『ミート・ザ・ビートルズ』から、69年の『アビー・ロード』に至る数年の間に出た50枚のアルバムで、ある音楽ジャンルを裁断することなど出来はしないはずなのに(というか中山さんはそんなことは言ってない)、それを聴く私のほうが勝手に、「ここにロックのエッセンスがある」と思い込ませてくれるのは、著書の語り口の巧みさと同時に、それを裏付ける「音の力」があるからなのだ。
というか、本来「ジャンル」「枠組み」などというものはアプリオリに存在するわけではなく、それを眺める人々の「視線」が「恣意的に」カテゴリーを創造する。要するに、音楽ジャンルなどというものは共同体の共同主観性が構築するのだが、野心的書き手は、自ら新しい視点を創出しようとする。もちろん一般音楽ファン向けのこの本では、そうした大上段に振りかぶった議論が展開されているわけではないけれど、読み手のそうした「裏読み」を誘う魅力が『ビートルズから始まるロック名盤』にはあちこちに仕掛けられているのだ。
ジャズにおけるマイルスにしろ、ロックにおけるビートルズにしろ、中山さんの音楽を扱う手付きには、きわめてまっとうな実証的説得力の奥に、優れた書き手が備えるべき(新たな視点という意味での)ジャンルを創出しようという“野心”がいつも隠されている。
60年代における、そして70年代においても、ビートルズヴェンチャーズを、またディランとプレスリーを、同一の俎上で論ずる言説など存在しなかった。ところが中山さんは、当時のラジオによる「洋楽番組」が、コアなロックと同時に、ポール・モーリアが流される自由な空間であったことをキチンと記憶しているのだ。
この本は、そして今回の中山さんによるいーぐる連続講演は、そうした柔軟な音楽受容の記憶を想起しつつ、21世紀の時点でより生産的な(つまりは面白い)ロックの枠組みを再構築しようという、優れて野心的試みであると思う。
付記すれば、個人的に中山さんにお願いしたいのは、この本の70年代版であり、それに基づいたいーぐるロック・イヴェントであり、またビートルズを徹底的に聴く会の開催である。とは言え、お忙しい身の中山さんであるから、後者については、ハードバップの聴き巧者であると同時に熱狂的ビートルズファンの、われらが阿部ちゃんが、来春早々にも「ビートルズ、聴き比べ大会」を企画してくれそうである。
余談ながら、ジム通いのせいか、打ち上げの席でのTシャツ姿の中山さんは、音楽評論家というよりは、元格闘家のような不敵な佇まいを見せておりました。恐るべし、中山康樹! 恐るべし、ビートルズ