私が多くの心あるジャズファン、音楽ファンのみなさまにご理解いただきたいことは、私自身を含めたすべての人間が、中立的で客観的、かつ透明な感受性を持つこと自体、原理的に不可能であるという厳然たる事実です。これは個人の好みの問題とはまったく別で、人間の感受性自体が、時代の、文化の色付けから逃れられないということです。そしてそれは別にネガティヴなことではなく、単に現実なのです。

というか、音楽を含めたすべての文化現象は、まさにその「色付け」のことであり、その渦中の人間(もちろん私も)たちにとっては、かけがえのない価値を持っているのです。そこにニヒリズムの入り込む余地はない。パーカーファンにとってパーカーの価値はリアルであり、同じようにAKB48ファン、ベートーヴェンファンにとっても、そして歌謡曲ファンにとっても、それらの音楽の価値は「リアル」なのです。

ただ、その「リアル」は、必ずしも客観性を持っているわけではなく、また当然普遍性もない。

これは代表的な文化の産物である言語のことを考えてみれば、推測がつくと思うのです。日本語は日本人にとってリアルですが、外国人にとっては習得の対象です。しかしこうしたことを誰も不思議とは思わないでしょう。音楽の価値も同じことなのです。

「芸術」も当然、「色付け」のひとつです。普遍性などありません。しかしその渦中、と言うか、当該文化圏内の人間たちにとっては、かけがいのない価値がある。これもまた事実なのです。

「色付け」を別のことばで説明すれば、「認識の枠組み」とも言えるでしょう。本来フラットな(コンピューターが枚挙的、網羅的にすべての第3項について類似を計算するような)対象に、恣意的な(人間的な)理解の枠組みを与え、「色を付ける」こと、これこそが文化現象の本質なのです。

とは言え、人間が「普遍」を追求したがるのもかなり本質的な傾向であり、それはたとえば「統一理論」の探求になったり、自然科学の発達に寄与したりしたことは忘れてはいけないでしょう。

しかしながら文化、芸術など人文科学の対象となるようなことごとは、ほとんどが「恣意的な人間の認識の枠組み」によって歴史的に形成されてきたものなので、そこに普遍を押し付けようとすると、どうしても無理が来る。まあ、思い込んでいる人にとってはそれも「価値」なのかもしれないので、特に何も言うことはないのですが、やはり発想の柔軟さは「普遍信仰」がデッドエンドにならざるを得ないでしょうね・・・

22世紀の人類が「昔は『芸術』というものがあったんだ」という「昔話」をする可能性を想像することが、知性というものなのではないでしょうか。