1月11日(土)

はじめに、ジャズファン、そして幅広い音楽ファンのみなさまがた、本年もよろしく!

新年最初の『いーぐる連続講演』はここ数年(いや、もっと前からかも・・・)原田和典さんにお願いしている。これは、いろいろな意味で原田さんの講演が音楽評論の“王道”を行くものだからだ。“王道”は必ずしも“主流”を意味するわけではない。確かに今回原田さんがとりあげたアート・ブレイキーは人気実力ともジャズの主流に位置したジャズマンだけれども、原田さんの講演は「講演のあり方自体」が王道を行くものなのだ。

それは音楽評論の王道とも言っていいと思う。具体的には、まずもって現在知りうる限りの正確なデータを示し、出来ればその出典も明示する。今回のケースで言えば、原田さんはアート・ブレイキーの生い立ち、経歴をさまざまなミュージシャン、音楽関係者の証言を交え、簡潔かつわかりやすくお客様に提示することにより、お客様方に適切なブレイキー像を提示してくれた。

次いで、従来からの日本におけるアート・ブレイキー観、世間一般のブレイキー評価をていねいかつ客観的に紹介した後で、原田さん自身の見解、意見を表明し、そしてそれを「音」で証明する、というものだ。アタリマエのことのように思えるかもしれないが、これをキチンと出来る音楽評論家は意外と少ない。

と、上から目線でエラそうなことを言ってしまったが、かく言う私自身、こうした段取りを原田さんほどちゃんと出来ているかというと、はなはだ心もとない。ハッキリ言って、データ的なことはあまり得意(得意とか不得手とかそういう問題ではないのだが・・・)ではなく、原田さんのオーソドックスな手法に見習うこと大であった。

具体的には、原田さんはアメリカの文献類をかなり細かくていねいに読み込んでらっしゃる。30分以上横文字を見ると頭痛がするワタシには、とうていマネ出来ない。また、ルディ・ヴァン・ゲルダーやらルー・ドナルドソンなど、ブレイキーを語る上でのキーパーソンの証言を個人的に取っているところなど、お仕事とはいえまことに見事なもの。

加えて、音楽として聴いて充分楽しめる音源の選択。そしてたとえば、従来マイルスを中心に聴きがちだったキャノンボール『サムシン・エルス』(Blue Note)収録の《枯葉》や、同じくグラント・グリーンやらソニー・クラークに耳が行くグラント・グリーン『ナイジェリア』(Blue Note)の《イット・エイント・ソー・ネセサリー》などをブレイキーのドラミングにスポットを当てて、彼の音楽性の特徴、個性、多彩さを示す場面など、実にナットク。

しかし私が一番感心したのは原田さんの「ジャズ観」が実にまっとうというか、まさしく“王道”を行くものだからだ。それは、ジャズを表面的なの技術の巧拙で評価する(最近のジャズファンにはその傾向があるような気がするが、それはもう「ジャズ」ではない)のでなく、「その演奏が与える実際のジャズ的効果・効用」を正確に聴き取っているところだ。

「効果」という言い方はもしかすると誤解を招くかもしれないが、たとえば今回のブレイキーで言えば、演奏の始まりと終わりで極端にテンポが変わってしまったとしても、その「加速感」自体がジャズならではのダイナミズムを生んでおれば、それは「良い演奏」「良いジャズ」と評価できる(クラシックではそうはいかないのでは・・・)、すなわち私がよく言う優れた「ジャズ耳」の持ち主であるところだ。

実を言うと、「ジャズ耳」の具体的内容をことばにするのはたいへん難しいのだが、たとえば、原田さんとか連続講演でおなじみのハードバップ・マニア、阿部ちゃんたちのように、似たようなジャズ体験(要するにジャズ喫茶体験ですね)をしてきた方々とは、まさに阿吽の呼吸でそのツボが分かり合える。

というか、少なくとも1990年代ぐらいまではこうしたファン同士の交流がどこのジャズ喫茶空間でも見かけられたものだが、ジャズ喫茶自体の変質、減少によってこうした好ましい「ファン空間」が減少したことと関係があると思うのだが、「ジャズ耳」自体の継承が難しくなりつつある。

「ジャズ耳」の内実はいわば「職人芸」のようなものなので「見よう見まね」でしか伝わらない。しかし、それを誰にでも理解できることばによって「繋げ」ていくのが、私たちジャズに関わる人間の役割ではないかと、近頃痛切に感じている。原田さんたちともども、出来る範囲で「ジャズ耳」の継承を今年も目指していこうと、原田さんの素晴らしい講演を聞いて大いに力づけられました。