11月23日(木)
東京都現代美術館に大竹伸郎「全景」展を見に行く。中身も客層も、先週、国立西洋美術館で見た「ベルギー王立美術館展」とはえらい違い(あたりまえだ)。観客の大半が若い人たちで、これは大竹氏が音楽もやっている強みか。とにかく物量に圧倒されましたね。彼の、ものを作りたくてしかたがないという衝動、エネルギーがヒシヒシと伝わってくる。
ヘンリー・スレッギルのジャケットに使われた「ファミリー・ツリー」という作品、実物はかなり大きいし、細部がどうなっているのかようやくわかった。ジャケットから受ける印象とはずいぶん違う。言ってみればライヴとCDの差か。いや、もっと違うな。他の作品もサイズ、質感も含め、雑誌等の紹介写真ではまったく実感が伝わってこない。
作品を見つつ、昨日青山ブックセンターで立ち読みした『美術手帳』の記事がアタマをよぎる。浅田彰氏が「全景展」の解説の仕事を断った経緯の中で、これらの膨大な作品群を「ゴージャスなゴミ」と形容しているのだ。
それには前段があって、この展覧会の前に現代美術館で開かれていた「カルティエ財団展」を、石原都知事が「ゴミ」と批判したことを踏まえ、浅田氏も(残念ながら)石原氏の意見に同意せざるを得ないとしつつ、しかるにこちらは、同じゴミでも肯定的に「ゴージャスな」と言っているのだ。もっとも、めちゃくちゃアタマの良い浅田氏のことだから、立ち読みでは気が付かないレトリックが仕掛けられているのかもしれないが、、、
私も観た「カルティエ財団展」では、「コンセプチュアル・アート」の悪しき実例という意味で「ゴミ」としか言いようの無いものも散見されたが、「全景展」では、もっと違う意味での「ゴミ的」な、というかゴミと見られることをも恐れない尋常ならざる作家のパワーを感じた。大竹氏は、作品の「完成度」ということにあまりこだわっていないように思える。ということは、既成の「アート」の概念自体に対する異議申し立てのようにも思え、これは音楽におけるロック、ジャズのスタンスに近いなあなどとも考えたのだが、実は現状に対する「異議申し立て」自体をアートは内在させているのだから、話はヤヤこしい。
ともあれ、この大竹氏の姿勢は、(文脈の中に作品を置いて見せようとする)村上隆氏の発想の対極にあるものだ。もちろん大竹氏の作品は「概念的」ではまったく無く、ブツそのものが放つ否応のない質感で勝負している。要するに、言葉本来の意味で圧倒的に「感覚的」なのだ。
ファミリー・ツリー」で言えば、細部に写真を使っているが、クリスチャン・ボルタンスキー(いーぐるの階段の壁に貼り付けてある)などとはまったく扱いが違う。ボルタンスキーのポートレイトからは、なにやら瞑想的だったり宗教的だったりする「気分」が醸し出されるが、大竹氏の作品は徹底的に即物的で、あらゆるアレゴリー的解釈を拒絶しているように見える。ボルタンスキーも好きだけど、この大竹氏の姿勢は潔い。
ところで彼の「スクラップ・ブック」、あれ、なんかやってみたくなりますねえ。でも僕らがやると、きっとヘンに律儀なものになっちゃうんだろうなあ。