よく人は音楽との出会いを神秘めかして語りがちだが、それは思い込みに過ぎない。もっともその思い込みにはそれなりの理由がある。まず、人は自分が属する文化全体を外から眺めることは難しい。また、自分が属する時代を客観的に把握することも困難だ。つまり自分が属する共同体、自分が生きた時代の価値観を相対視することは誰にとっても難しいのである。だから外部から見れば日本人の一般的傾向であったり、あるいは超時間的観点から眺めれば、特定の時代の空気、気分に過ぎないものを自分の個性と思い込んでしまうのだ。
私がビートルズと出会ったのは(そして感動したという事実を含め)1947年生まれの日本人少年にとって、必然とまでは言わないけれどかなりの程度蓋然性の高い出来事で、同じことが1963年当時の西欧文化圏において圧倒的頻度で起こったからこそ、ビートルズはフェノメノン(現象)とまで言われる存在となったのである。
もちろん私がビートルズの例を出したのは分かりやすさ、一般性を考慮してのことだ。さまざまな人が、クラシック、ジャズ、あるいはボサノヴァといった特定の音楽〜それらは場合によってはかなり特殊なものであったりもするのだが〜との運命的な出会いを文学的に語ったりもするけれど、そうした状況の背後には、対象の認知という一般的現象が存在するということを確認しておきたい。
この現象は二重の側面を持っている。
それはゲシュタルトの把握という人類一般(犬、猫、蛙といった動物は、人間とは異なるゲシュタルト認知を行う)の認知能力に依存しているという面では、個人を超えている一方、ゲシュタルトの生成自体が特定の文化状況の関数となっているという意味では、個人の体験という特殊性に寄りかかっている。
もちろんここは複雑な入れ子関係で、たとえば21世紀初頭、日本在住30歳男性は、それなりの限定された文化状況を生きているわけだが、その条件に合致するすべての人間の経験が同一であろうはずがない。お役所務めの真面目なサラリーマンもいれば、女に寄生するジゴロもいるだろう。またジャズ・ファンもいればパチンコ命の人だっているに違いない。そうした人々の体験が同じはずがなく、その社会における存在のありようによって経験の内容は多種多様だ。
しかしまた一方、適切な社会学的分析を施せば、特定の社会階層の経験の一覧がかなり正確にプロファイルされてしまうのも、また事実なのである。もちろんプロファイルされるという事実は人が固有性を失っている状況を意味する。
この少しばかり入り組んだ関係を丹念に解きほぐせば、私のパーカー体験も、そしてそしてそこから敷衍されるはずの「ジャズがわかるようになる」という状況も、何の神秘もなく理解されることだろう。
私の場合はビートルズだったが、多くの皆さん方にも各自の「一瞬の感動体験」がおありだと思う。そしてその体験を特権化したい気持ちも良く分かる。なにしろそれは「突然の出来事」だったのだから。しかし今までの分析である程度説明がつくと思うが意識の上では一瞬の、突然の出来事も、無意識領域では、対象認知のゲシュタルト形成のための長い準備期間があったのではなかろうか。ただそれは格別自覚されないだけなのだ。
これは学習一般について思い返してみれば容易に類推がつく。たとえば小学生のころ苦労した鉄棒の逆上がり。あれって、最初は何度やっても腹筋の使い方や腕の引き上げのタイミングが分からず、ドタバタするばかりだけど、何度かみようみまねでやるうち、あるとき「突然」足が反対側にクルンと返る。またもっと小さいころ自転車の練習をしたとき、何度もコケつつ、あるとき「突然」倒れそうになる方向へハンドルを切れば倒れないということを「学習」する。
このことは人間の運動感覚が、逆上がりや自転車乗りといった特定の目的にそって統合されるためには、一定の身体による実践(要するに練習のことです)が必要であり、またその成果は「不連続」に現れるということを示唆している。
想像するに、一度も逆上がりを試みたことのない身体と、35回目に逆上がりが出来た人間の、34回目の試みの直後の身体の状況は、出来ないということでは同じでも、恐らく脳の運動領域における神経細胞の結びつきに決定的な違いが生じているのだろう。はなはだいいかげんなたとえだが、大雨で崩れる寸前の崖地は、外見こそいつもの斜面と同じだが、内部に水がタップリと滲みこみ、ちょっとしたきっかけで崩れてしまうという点では、構造が決定的に異なっている。専門外なので更に想像をたくましくすれば、逆上がり34回目の小学生の脳の神経細胞は、逆上がりが出来る神経細胞の結びつきの状態に、(崖崩れ直前の斜面のように)後一歩ということなのではなかろうか。
逆上がりを練習している少年には、嫌なことを練習しているという強烈な自覚があるけれど、ラジオを聴き、あるいは好きなレコードをBGMに麻雀卓を囲む学生には、学習の自覚などない。
ところで、もしかすると音楽の聴取と逆上がりではまったく話が違うと思われる方もおられるかもしれないが(というかむしろそれが常識であろう)、聴覚をはじめとする感覚器官の働きと、運動をつかさどる運動領域の働きには、強い協働関係があることはすでに説明した*1。要するに音楽の聴取もそして絵画の鑑賞も、優れて身体的な経験なのである。
ここで述べられているのは知覚と運動の協働現象だが、両者が互いに関係しあうという事実は、一般に考えられているように両者がまったく無関係の領域を形成しているのではなく、知覚領域と運動領域の活動原理が相互に同形の部分を保有していることを強く想定させる。すなわちこのことが、運動において現れる現象が知覚においても現れうると考える根拠である。
ところで話がいささか脱線するが、運動領域には関係ないと思われる脳の知的領域における認識作用にも、不連続性があることを皆さんも実感しておられるのではなかろうか。要するに「アッ、分かった」現象である。今まで意味不明の出来事が「不連続」に了解できてしまう例の現象のことである。
一番分かりやすい例は推理小説だろう。プロットに隠してバラ撒かれた多くのヒントが、あるワンフレーズで一挙に焦点を結ぶという奴である。もちろんすべての読者が同じ場所で犯人が分かってしまうような小説は、ちょっとまずい。それでは単なる論理的必然だ。そうではなく、ちょっとした些細な描写が「アッ、そうか」と思わせるようなストーリーは、そこの部分で読者に背筋がぞわぞわするような戦慄を走らせることが出来る。その戦慄感は、読書の過程で突如として不連続に起きるほど強烈だ。だいぶ前からこいつがクサイと思わせるようなストーリー展開は、アクションものならイザ知らず本格推理ではまずかろう。
でそのキーワードが読者の注意力のレベルによっていろいろな段階で設定されておれば、189ページ目で分かっちゃった読者は272ページまで読んでようやく犯人の見当をつけられた友人に自慢が出来るというものだ。もっともあまりに早く犯人が分かってしまうストーリーも問題なら、最後まで読んでもナットクできないような筋立ても困ったものだ。
それはさておき日常生活の中でも、事の次第が突然見えてくるような出来事がごくたまに起こる。今までそれは単にそういうことがあるとしか考えなかったが、つい最近読んだ本に、そういう出来事を論理的に説明できるかもしれない一般的法則が書いてあった。
*1:連載第3回でふれたが、重要な部分なので念のために論拠を明らかにする。モーリス・メルロ=ポンティ「知覚の現象学 2」(みすず書房版)「したがって、感覚や<感覚的性質>は表現を絶するようなある種の状態または純粋質(quale)の体験に帰着するどころではなく、それらは或る運動性相貌をもってあらわれ、また或る生命的意味でもって包まれているのである。前から知られていることだが、感覚には<運動性随伴現象>というものがあり、刺激は感覚ないし性質に結びついてその周りに暈を形成するところの<運動の萌芽>を引き起こすし、また行動の<知覚的側面>と<運動的側面>とはたがいに結びついてもいる。けれども人はたいていの場合、あたかもこうした関係がそれによって関係づけられる二つの項を何ひとつ変えることはないとでもいわんばかりに、ふるまう。(p.12, p.13)。」