think10 -- ジャズを聴くことについての原理的考察 第10回

近頃はやりの「複雑系」とやらに挑戦してみようと思い、「自己組織化と進化の論理―宇宙を貫く複雑系の法則」(スチュワート・カウフマン著、日本経済新聞社刊)を読んでいたら、非常に面白い記述にぶつかった。
生命発生の重要な謎である、高分子化合物がなぜ「自然に」出来上がったかという問題についての考察部分で、「ランダムグラフ」というものについての解説があった。それをたとえ話で説明している部分を引用してみよう。

一万個のボタンが、木でできた床の上にばらまかれているところを想像してみよう。ランダムに二つのボタンを選んで、それらを糸でつなぐ。こんどはこのペアを下に置き、さらに二つのボタンをランダムに選ぶ。そして、それを取り上げ糸でつなぐ。これを続けるのであるが、最初はほぼ確実に、以前取り上げたことのないボタンを取り上げることになる。しかし、しばらくすると、ランダムに二つのボタンを取り上げたとき、その片方は、前にすでに選びあげたボタンだったという状況が増えてくる。したがって、この新しく選んだ二つのボタンの間に糸を結ぶとき、結局は三つのボタンがいっしょに結ばれることになる。要するに、一対のボタンをランダムに選んで糸につなぐ作業を続けていると、しばらくして、ボタンはより大きなかたまり、つまりクラスターへと相互に連結されるようになる。(中略)ランダムグラフの重要な特徴は、糸とボタンの比を調節していったとき、非常に規則的な統計的振る舞いをみせることである。とくに、糸とボタンの比が0.5を超えると、相転移が生ずる。この点において、『巨大なクラスター』が突然形成されるのである。(中略)糸とボタンの比が0.5を越えた際に、最大クラスターの大きさがかなり急激に変化するという現象は、おもちゃの問題版の相転移である。私はこの相転移が、生命の起源を導いたのだと信じている。(前掲書、p105, p106)

ちょっと分かりにくいたとえ話かもしれないが、ボタンの数を20個に減らして考えてみよう。1回や2回ボタンをつなぐ作業をしてみても、それらが他のボタンとつながっている可能性が低いのは直感的に分かる。3回4回でも似たようなものだ。ところでボタンの総数は20個しかないのだから、11回その作業を行えば必ずどれかはダブる(11×2=22, 22>20)。
しかし、10回目できちんと2個づつ10組20個のボタンの組ができると考えるのはむしろ奇跡に近く、必ずその段階に至る前にどれかの組はまず違いなく3個以上になり、その代わり、まだどこともつながっていないボタンが数個残っていると考える方が理にかなっている。
そしてその状況では、任意の一個のボタンをつまみ上げると、それに連なって2個3個あるいは4個のボタンがさまざまな形で絡み合った状態でくっついてくる。すなわちこれがクラスターだ。
そしてこのクラスターは少しづつ出来てくるのではなく、ある閾値を超えると急激に大きな形状をなすというのである。そしてその閾値は「糸:ボタン=1:2」つまりボタンが20個の場合は、糸でつなぐ作業を10回行った辺りから、急激にボタンは絡み合うというのだ。「おもちゃの問題」というのは、科学者たちが複雑な問題を簡単な現象に置き換えて思考実験することだ。ここでは、

(おもちゃの問題と)類似した以下のような現象が、生命の起源についての理論の中に現れる。化学反応系において、十分多くの反応が触媒作用を受けると、触媒された反応の非常に大きな織物が突然「結晶化」する。こうした織物は、ほぼ確実に自己触媒的であることがわかる。そして、ほぼ確実に自己維持的である。生きているのである。(同書、p108)

という著者の結論を迎えることになる。要するに「神の手」を煩わせずとも、生命は自己組織化したというのだ。この話自体非常に興味深いものであったが、それと同じぐらい関心を引いたのが「ランダムグラフ」の性質であった。縦軸に最大クラスターの大きさをとり、横軸に糸の数をボタンの数で割った数値を取ると、はじめなだらかな一次曲線に近い右上がりのグラフが、0.5という特異点を越えると急激に立ち上がりが急峻になり、そしてまた最大クラスターがあるレベルに達すると、もとのなだらかな傾斜に戻るというのだ。まさにグラフは不連続なデジタル的変化を示すのである。
われわれは行為とその結果が平行関係にあるような事象に慣れている。一時間で原稿用紙1枚書ける人が3時間机に向かえば3枚とか、1日で5m溝を掘れる人が5日働けば25mとかそういう話だ。しかしこの例では、ある時間を経過すると急激に1時間で10枚も20枚も原稿が書けるようになるというのだから、これはここで何か(神の啓示とか)特別なことが起こったと考えたくなる。
にもかかわらず、これは統計学上の性質なのだから一般性を持つ当たり前の事象だというところが、いたく私の想像力を刺激したのである。ランダムグラフは、多くの人々が神の手を想像したり、神秘の念に打たれがちな突然の、不連続の、あたかも無から何かが発生したかのごとく思えるもろもろの精神現象に対する、合理的説明となりうるのではないかと考えたからである。
われわれの持つ情報量も、一定の閾値を越えると相転移が起こり、あたかも新発見が行われたような錯覚に陥ることが十分予想される。恐らく多くの人がこういう体験を持つと思うが、私にもそうした体験はあって、ある事柄についての記述が、それまで関係ないと思われていた他の現象、あるいは事実と密接に結びついていることに驚かされたことがたびたびある。要するにそれまで断片的であったさまざまな知識が、突如として統合され一貫した認識へと、あたかも巨大クラスターが突如形成されたかのごとく一気に変化するのである。
たとえば一冊の書物を読む体験を考えてみる。そこに書かれていることがらは、まったくはじめての事象ばかりということはなく、何がしかすでに知っていることを含んでいるものだ。具体例を挙げてみよう。今話題のキリスト教薀蓄推理小説ダ・ヴィンチ・コード(上) (角川文庫)」(ダン・ブラウン著、角川書店刊)に「シオン修道会」というものが出てくる。シオン修道会の別名はテンプル騎士団で、この名前に記憶があった。ずいぶん昔に読んだ、ウンベルト・エーコの小説「フーコーの振り子〈上〉 (文春文庫)」(文芸春秋社刊)でテンプル騎士団は重要な役回りを果たしていた。すなわちここで、あたかも2個のボタンならぬ2冊の書物が出会ったのである。
ところで「ダ・ヴィンチ・コード」には、主要な登場人物としてソフィー・ヌヴーなるフランス司法警察暗号解読官が登場する。まだ読んでいない方のためにネタばれしそうなことは書かないが、私は大昔読んだ湯浅泰雄さんの「ユングとキリスト教 (講談社学術文庫)」(人文書院刊)に、古代キリスト教において、「ソフィア」は「知恵」を女性神格化した存在であり「神の妻」と見なされていた、という記述を思い出した。もちろんこれは正統キリスト教会から見れば異端思想である。そこでこのキリスト教異端思想を題材にした小説の筋立てから言って、ソフィーが重要なキー・ワードになるに違いないと思ったら大当たり。つまり「ダ・ヴィンチ・コード」は「ユングキリスト教」という3個目のボタンも吊り上げていたのだ。
じつはボタンはもっと絡んでおり、湯浅さんの姉妹本とも言うべき「ユングとヨーロッパ精神」(人文書院刊)をセットで読めば、「ダヴィンチ・コード」も「フーコーの振り子」も共通のバックグラウンド、すなわちキリスト教にとっての異端、神秘思想を背景として書かれていることが良く分かる。もちろん小説としてのできはエーコの方が数段上だが、エンターテインメントとしては、ダン・ブラウンも悪くない。ちょっとハリウッド的過ぎると思ったら、すでに映画化予定だと、ナルホド。
前回予告した推理小説の「アッ、わかった」現象は、情報についてのこうした一般的性質から導き出されるであろう。しかしこの現象は、自己増殖系としての人間の知性一般に対する不気味な予兆ともなりうる。というのもエーコの小説は、あまりにも知識が複雑かつ大量に蓄積されると、それ自体がほぼ自動的に他の概念と結びつき、あたかも自己増殖系のごとく意味を拡大再生産しかねないという不気味な事実をアイロニカルに描いているからである。
このことはまた、晩年のソシュールの頭を悩ませた、ラテン詩のアナグラム問題とも深く関係しているのではなかろうか。いささか話題がジャズから離れたようにも思えるが、この話は芸術の意味、そして意味一般の生成作用を考える上で、重要なヒントを提供していると私は思う。がとりあえず次回からは、いよいよ「ジャズが分かるようになるとはどういうことか」について、具体的考察を開始するつもりだ。