think16 -- ジャズを聴くことについての原理的考察 第16回

芸術活動を意味あるものにするには、作家のみならず享受者にも責任があるといったが、そのことをもう少し考えてみよう。そのために、ちょっと唐突かもしれないけれど「民主主義」についておさらいしてみたい。
みんな、民主主義には「直接民主主義」と「間接民主主義」があることは知ってるよね。で日本は後者、間接民主主義を採っている。つまりわれわれの代表を選挙で選び、その選ばれた議員が国政なり県政を担当する。それに対し直接民主制は、古代ギリシャ都市国家のように、選挙権を持った市民全体(奴隷は除く)が政治に参加するシステムだ。近代国家でも時々国民投票を行うけれど、これも直接民主制だろう。
でなんとなく印象として、本来は直接民主制が好ましいのだけど、日本のように1億を越す国民がいる国では、実務的にそれが不可能だからやむを得ず間接民主制を採っているのだ、と考えている方はけっこう多いのじゃなかろうか。だからこそ、世論調査の結果と実際の政治のギャップが声高に語られもするのだろう。
しかし本当を言うと、直接民主制は少しばかり問題のある制度でもあるのだ。たとえばナチスは、決して最初から暴力のみをもって政権を奪取したわけではなく、国民投票によって多数派を占めた後に、あの専制的体制の本性を現していった。というか彼らが政権をとるに当たっては、ワイマール体制下の鬱屈したドイツ国民多数の支持があったことは紛れも無い事実だ。
つまり、政治宣伝に長けたグループが巧みに大衆を扇動すればどうなるかという、悪しき実例がナチスなのである。というような教訓があるから、ドイツでは今でも国民投票には慎重な姿勢を崩していない。
ところで皆さんは間接民主制をどう理解しておられるだろうか。日本は政党政治であるから、各政党の政策によって所属候補者を選ぶ一方、候補者自体の見識も問われているはずだ。誰だって経歴詐称なんてケチなことする人間を信頼できないよね。ここのところをもう少し具体的に言えば、私の場合、A氏に投票するのは、自分は年金制度や郵政民営化といった個々の政治問題についての専門的な知識は無いけれど、A氏なら十分その責を果たしてくれるに違いない、という信頼が基礎にある。彼を自分の代わりに議員になってほしいと考える、だから議員を「代議士」とも言うのだ。
ちょっとミもフタも無いことを言っちゃうと、事実として、無作為に抽出した人たちの知能をグラフにすれば、いわゆる標準偏差カーブを描く。で、賢い人が 1割ぐらいアホな方々もおよそ1割、残りの8割ぐらいがわれわれフツーの庶民だ。知能はまっとうな判断力の基礎になる。
そこでだ、複雑怪奇に利害の絡んだ現代政治の問題解決法を、自分ではどうにも理解が付かないけれど、あの候補者ならわかるであろうという判断が、国民各層でまっとうに働けば、そこで選ばれる人は、選ぶ人たち全体の平均より優れた資質の持ち主であるはずだ。要するに、おバカにも自分より優れた人間は誰なのか、ぐらいの判断はつくはず、というのが間接民主制の考え方なのである。そこで問われているのは個々の具体的な政策判断ではない。
もちろん現実はまったくそうはなってなく、単に情実や目先のセコい利権がらみで投票するからニッチもサッチも行かなくなってるのが日本の現状だけど、考え方としては、間接民主制は直接民主制より相対的に合理性を持っていると思う。というのも、直接民主制にすれば、問題の本質について研究し深い見識を持った人物の1票も、ウケ狙いTVタレントの言うことを鵜呑みにし、いつも判断を誤っちゃうようなおバカの1票も同じという、けっこうヤバい事態が現出する恐れがあるからだ(もうなってるけれど)。
とここで話は急に音楽に戻る。大衆音楽は直接民主制の音楽だ。それでまったく問題ない。というか、そもそも定義からして大衆音楽はそういったものなのである。それに対し芸術ジャンル一般は、本来民主主義とはまったく相性の悪いシロモノなのだけど、ここまで大衆化が進んだ現代社会ではそうも言っておられず、まあせめて間接民主主義で行きましょうね、といったところで妥協しているのが現実だ。
ハスミ大先生の『凡庸な芸術家の肖像〈上〉―マクシム・デュ・カン論 (ちくま学芸文庫)』(蓮実重彦著、ちくま学芸文庫刊)を読むまでも無く、21世紀のご時世で超エリート集団、マラルメの火曜会を夢見ても詮方ない。余談ながらハスミ著は、本来われわれ不勉強なくせにアタマに血が上った団塊世代を揶揄する目的で書かれたにちがいないのだが、彼らは不勉強だから当然読まず、世代を通り越して今や40代半ばの有能な方々に圧倒的な影響力を及ぼしてしまった。ワタシとしては、そろそろその呪縛(バカと思われることを極端に恐れる)から逃れても良い頃だと思うのだが、、、
それはさておき、少なくともある部分において芸術音楽と化したジャズを、直接民主主義的なやり方で判断されたのではたまったものではない。それはさまざまなレベルで言えることだ。まずジャンルの誤認。これは本来ジャズ・ファンでもなんでもないポピュラー音楽ファンが、自分もジャズ・ファンと誤認し、メロディが無いだのナンだの紋切り型のご意見を吹聴される現象である。言ってみれば神奈川県知事選挙に東京都民が口出しするみたいな話だ。東京も神奈川も首都圏(ポピュラー音楽のたとえ)という括りでは同じかもしれないけれど、個別県政(ジャズのたとえ)にまで口出しするのは越権行為だろう。
それはジャズにも責任があって、ジャズという音楽自体が芸術音楽と大衆音楽の双方にまたがったヌエ的音楽なので、聴き手が対象の性格を誤認するのもやむをえないところがある。それは《ハロー・ドーリー》のサッチモと「ホット・ファイヴ」のサッチモのような形でも現れるし、エヴァンスの『ワルツ・フォー・デビー』が、聴き手のジャズ理解(くどいようだが、これは身体感覚における把握という意味である)のレベルにあわせた各段階で、それぞれの相貌をみせるという重層的構造としても現れる。
《マイ・フーリッシュ・ハート》は、メロディアスでロマンチックな名曲というポピュラー・ミュージックの判断基準でも十分優れた演奏だけれども、それをジャズ・ファンが聴けば、彼のピアノのタッチに秘められた思わぬ強靭さに気が付くという重層構造がある。
《ハロー・ドーリー》《マイ・フーリッシュ・ハート》をたまたま大衆音楽ファンが好んだからといって、彼らの認識(これも身体感覚による認知のこと)のレベルがジャズの本質的理解につながらないのは当然なのだ。そんな人々が「良い音楽は誰にでも分かるはず」などという凡庸な俗説をタテにして、「ホット・ファイヴ」など古臭いとか、モンクの音楽は楽しめないなどとホザいたら、いいかげんにしろよと言いたくなるのは当たり前だ。彼らには、ジャズの価値について発言する資格はない(というか、そもそも彼らは「ジャズ的価値」などというものを求めてはいないのだ)。彼らに許された権利は「大衆音楽としては」という断り書き付きでの発言なのである。だがマトモなジャズ・ファンは、誰もモンクを大衆音楽だなどとは思っていない。
同じようなジャンルの誤認はジャズ・ファンの側にも言えて、売れまくってるポップスを「ヘタクソだ」「個性が無い」などと言って否定するのも的外れなのだ。ポップスはジャズ的視点で作られてもいないし、聴かれてもいない。一見柔軟でリベラルにみえるジャンル越境的思考法が、思わぬほころびを見せるのがこういう瞬間だ。ヨーロッパの研究者がアフリカ原住民の音楽に接したときのように、われわれは今一度他者の価値観に謙虚にならなければいけない。
多くのポップスは、聴き手の各自が各々の嗜好に従って良否の判断を下す直接民主制でまったく問題はないが、ジャズに対する価値判断は、音楽ファンといえどもジャズ的表現の価値について熟知したジャズ・ファンにそれを任せる、間接民主制であるべきなのだ。
誤解の原因は、ジャズ自体のもつ芸能性が人々をして大衆音楽の一ジャンルに過ぎないと思わせてしまうところにもある。これはもともとが黒人音楽であるジャズの宿命でもある。嫌な話だけど、一昔前の黒人たちは、過酷な人種差別の中で如何に生きるかと言う生活の知恵で、自らをワザと道化師のような存在として白人たちに曝すという演技を、日常的に強いられていた。
そうした人々の音楽が白人文化と接したとき、彼ら黒人ミュージシャンたちがどういう姿勢をとったかについて、われわれはもっと想像力を働かすべきなのだ。黒人たちが内心どう思っていようとも、対外的には大衆芸能としてアピールするのが無難なのはちょっと考えてみればわかることだろう。「芸術」などと言おうものなら袋叩きにされるのは目に見えている。だが、顕在的な差別がアメリカよりは相対的に希薄な日本では、そこのところが忘れられ、黒人たちが「演技として」とった姿勢を、音楽自体の属性と見間違えてしまうのである。
白人ジャズマンだって似たようなもので、少なくとも1960年代辺りまでは、あえて黒人の音楽をやる白人、という黒人以上の屈折感を、たとえばユダヤ系の白人であるビル・エヴァンスなどは抱いていたに違いない。彼は皮肉にも「私はカクテル・ピアニストにはなれないね」などと発言しているが、それはジャズが酒場のBGMとして聴かれてしまうことを肯定しているわけではない。
芸術性を帯びたジャズ的価値観に対する間接民主制のたとえ話を、もう少し煮詰めてみよう。そもそも大衆音楽ファンには、芸術音楽に対してあれこれ言う資格が無いことはすでに述べたが、それは私流芸術定義からも導き出される。すでにある大衆社会の平均的感性の範囲内での好みしか問題にしない大衆音楽ファンは、自らの感性を拡張したり深化させようというモチベーションが最初から希薄なのだ。だから、原理的に感覚の拡張深化を伴った音楽を評価するわけがない。仮に評価するとしたら、それは対象の持つ重層的性格、つまりエヴァンスの音楽のように、大衆音楽ファンにも理解できるレベルを備えつつ、その表現の深度において芸術性を持った対象であるということだ。
しかしその場合でも、大衆音楽ファンは《マイ・フーリッシュ・ハート》の、大衆音楽としてのレベルしか認知していない。仮に演奏の持つ表現の深み、強度まで捉えられるようになったとすれば、定義上、その段階でその人はジャズ・ファンに成ったということになる。というか私自身を含め、多くのジャズ・ファンはそうしたイニシエーション(通過儀礼)を経てジャズ・ファンと成ってきたはずなのだ。
最初からオーネットやモンクのことが気に入ったという人も稀にいるけど、そうした人たちは、もともと音楽を芸術としての観点から聴いているのだろう(偶然かもしれないがともに女性芥川賞作家、川上弘美氏と金原ひとみ氏はモンクが好きと言っていた)。念のために付け加えれば、人は芸術音楽ファンであると同時に大衆音楽ファンであることもできる。その人たちは、あるいは芸術音楽の観点から大衆音楽を聴き、あるいはまた聴く対象によって判断基準を変えていることもあろう。
私見によればこうした「ダブル・スタンダード」(2重基準)はむしろ好ましいことで、映画はゴダールしか見ないなどという人より、時にはハリウッドのおバカ映画も楽しみ、気分によっては、エリック・ロメールの3段字幕を鑑賞するという寛容な人間に、私は共感を覚える。