この不定期連載も17回目を迎え、気長にお付き合いいただいてきた数少ない読者の方々には、だいたい問題の所在がご理解いただけたことと思う。だが今まで私が述べてきたことは、心ある人々にとっては言わば常識であって、取り立てて目新しい事実は一つもない。
私たちが考えるべきはここからである。といっても以後の考察が特別な発見をもたらすかどうか、それはジャズではないけれど、やってみなければわからない。とりあえず問題を整理してみよう。それは二つの方向からなされるであろう。
まず第一の方向は、「音楽」の方向からのアプローチであり、2番目は「ジャズ」からの接近である。両者の交差点にわれわれが求めるものがあるはずだ。
今までの考察の道筋は、音楽は知覚の対象であり、知覚現象に普遍性はなく、従って、音楽にも普遍性はないということであった。また、原理的にユニヴァーサリティを持ち得ない「音楽」を、便宜的に民族音楽、大衆音楽、芸術音楽に分けて考えてみれば、民族音楽には民族共同体の感性が、大衆音楽には大衆の感性が、そして芸術音楽に対しては「自らの感覚を拡張、深化させることを欲する意思を持った人々の感性」がそれぞれ対応しているという、私なりの回答を提示した。
また、この考察の本来の目的「ジャズとは何であるのか」という方向から接近しようとすれば、「ジャズ的価値」とは具体的にどういうものかということを解き明かさねばならない。これは以前話題となった、ジャズ・ファンにおける「良い耳」とは何か、という疑問の答えでもある。そしてこれらの問題を整理すれば、最終的には音楽芸術における「ジャズ的価値」とは何かということになるであろう。
端的に言って「ジャズ的価値観」は共同主観的なものである。共同主観は特定の個人の主観でもなくまた客観的事物でもない、複数の主観が相互に関与する関係性の網目に生まれる相互的な現象である。だがこの概念は、字面のいかめしさから想像されるほど難解なものではない。と言うのも、われわれの文化的営為は、みなこの共同主観的な価値観によって支えられているのだから。
一番分かりやすい例は「言語」だろう。コトバは決して主観的なものではない。たとえば私がこれからは「ジャズ」を「チャズ」とすると主観的に決めたとする。しかしそんな決定は無視され「チャズ」と書いた原稿は赤が入れられるだけのことだ。またコトバが事物のような客観的な対象でないことは、虹の色名の多様な分節の例で皆さんはすでに学習したはずだ。言語は代表的な共同主観的な生成物である。
共同主観的な価値は、個々人の主観によって規定されるものではなく、また2+2が4であるというような理念的普遍性によって支えられるものでもない。共同主観的な価値は特定の共同体内部の、対象を切り取る眼差しの交点に生じる。日本において虹を七色と見ること、英語圏においては6色に、あるいはアフリカ諸民族においては2色なり3色なりに見なすということは、各共同体の対象(虹)に対する価値付け(意味付与)のあり方の違いであり、それがそのまま多様な色名分節のコトバとなっているのである。
一切の人間の文化的営為が、対象を切り取る共同体内部の人々の眼差しによって生じると言うことは、さほど難しい話ではない。乱暴に言い換えてしまえば、特定の人々の間で暗黙の合意形成が出来上がるという、見慣れた出来事に近い概念が、共同主観的な価値形成のメカニズムなのである。具体例を挙げれば日本人が挨拶に頭を下げ、欧米人が握手をする、そうした仕草にはそれなりの文化的背景があるのだが、それが特定の個人の主観に属する習慣ではなく、また人類一般の普遍的傾向と言うわけでもないことは容易に理解できよう。
前述した民族音楽、大衆音楽、芸術音楽は、それぞれ、特定の民族共同体の共同主観的価値が生み出した音楽、大衆の共同主観が好みを決定する音楽、自らの感性の幅を広げ深化させることを欲する意思を持った人々の共同主観が価値を支える音楽、と言いなおすことが出来る。
そうした前提でジャズ的価値観とは何かを考えようとすると、まず問題となるのがジャズ的価値観を支える共同体とはどういったものなのかということである。歴史的に考えれば、1900年前後ニューオルリンズ周辺に生活していた黒人共同体が最初のそれに当たるだろう。だがその共同体の範囲はジャズの拡散とともにシカゴ、ニューヨークそして今では世界中に広がり、とうてい地域や人種といった概念で括ることは不可能になっている。
こうした広範な共同体の範囲は消去法で絞っていくのが賢明な方法であろう。まずジャズを聴いたことのない人々は外れる。また聴いたことはあっても、特段の関心を示さない人たちも外してよいだろう。そうしてみると残るのはジャズを聴いた経験があり、それに関心を示した人々の集団というカテゴリーが浮かび上がってくる。なんのことはない、それはまさにジャズ・ファンのことではないか。そう、ジャズ的価値観を支えるのは、われわれジャズ・ファンの形作るゆるやかな共同体なのである。ジャズ・ファンの共同主観が形成する価値が、ジャズ的価値基準を決定する。
一見当たり前のようなこの結論は、実はかなり大きな意味を持っている。まずもって一昔前のような教養主義的カン違いから、ジャズを(かつての音楽的教養の代名詞的存在だった)クラシック音楽の価値基準から見て裁断すると言うような暴挙には、最初に?印が付けられるであろう。次いで「所詮ジャズは趣味なのだから、各自の好みによって価値を決めればよい」という「主観派」(価値相対主義者)も否定される。なぜならジャズ的価値観は、歴史的に多くのジャズ・ファンたちによって生成されてきた共同主観的なものだから。
また「主観派」の対極にある、「ジャズには絶対的な価値基準がある」という誤れる客観主義(普遍主義)に支えられた「真理派」とでも呼ぶべき立場もまた、間違いであることが理解されよう。なぜなら、ジャズは自然科学の諸分野のような客観的対象ではないからである。
実を言うと、世間に流通する退屈極まりないジャズ論議の大半が、・異なった価値基準による裁断、・主観主義、・客観主義といった3つの誤った前提に基づいたものなのだ。十数年前、非力を省みず最初の著作「ジャズ・オブ・パラダイス―不滅の名盤303 (講談社プラスアルファ文庫)」を書いたのは、こうしたあまりにも低い当時のジャズ界論争レベル(今でも一部にはこうした原始人たちがいるが)に呆れ果てたということがあるのだが、商業出版物という制約のため論理構成は大幅に省略せざるを得なかったので、一部には私の発言自体を一種の絶対主義的主張と取り違えている向きもあったようだ。今回thinkを書こうと思った動機の一つに、当時の著作の背後にあった論理構成を明らかにしたいということがある。
ジャズの価値を決めるのは、歴史的に集積されてきた多くのジャズ・ファンの共同主観であるということ。この一事を理解していただくだけで、ジャズ界の偏差値は一気に20は上がろうというものだ。偏差値という言い方がおきに召さないならIQと言い直しても良い。どちらにしろ、この大前提をご理解いただけないような方々には、もうジャズ論など戦わせてほしくない。それは、ろくにヒンズー・スクワットも出来ないくせに格闘技をやろうというに等しい愚挙なのだ。