10月13日(水)
【星野さんの「コメント」へのご返事】

私は、「音楽の価値は好みしかない」などと、あの講演の質疑の際はもちろん、過去にも一度も言ったことはなく、むしろ音楽の価値を好みで判断する立場には、常に批判を繰り返してきました。

星野さんは、講演のあとの私の確認の質問に対して、【音楽には客観的で普遍的な永遠不滅の価値がある】と、確かにご発言なされましたよね。また、【音楽の価値について、一方に「好み」というベクトルがあり、もう一方に「客観的価値」というベクトルがあり・・・】ともお書きになっています。一方に好みというベクトルがあるのはその通りでしょう。いわゆる主観的価値観ですよね。私にも当然音楽の好みはあります。しかし、もう一方を「客観的価値」とされ、「音楽の客観的価値」の存在を認めておられるところが、私との決定的な相違点であり、今回の議論のキモなのです。

講演の際星野さんは、【ベートーヴェンの方がAKB48(まあ、星野さんがモーニング娘と思い込んでおられるならそれでもかまいませんが・・・)より偉大である】と発言されましたが、その根拠は「歴史が証明している」と、「みんながそう言っている」の二つしか挙げず、【それぞれのジャンルの中で優劣があり、あるジャンル内で最高のものは別のジャンルの最低のものよりは素晴らしいだろう】というご発言は、今初めて聞きました。

【あるジャンル内で最高のものは別のジャンルの最低のものよりは素晴らしいだろう】というご意見、いったいどういう視点、立場からのご判断なのでしょう。仮に、AB二つの音楽ジャンルの、両者共に通じている方の判断だとしたら(というか、そうでなければ両者の妥当な価値判断などできませんよね)、単に、【各々の音楽ジャンル内部での価値判断】を、それぞれAとBに下した後で、その結果を、【Aという音楽ジャンルではAが優れており、Bという音楽ジャンルではBはたいしたことはない、従って「相対的に」BよりAの方が優れているであろう】という個別ケースの推測として表明しているに過ぎません。それは二つの音楽の間に「価値の普遍性」が存在することの例証とはなっていないのではないでしょうか。

星野さんは「そろばんとコンピューター」の話の意味を誤解されているようです。私があのたとえ話で説明したことは、中華料理が好きだとか寿司が好きだといった好みの問題とは関係なく、二つのものを比較する時は、両者に共通する基準軸が必要であるということをご説明したに過ぎません。私は料理の専門家ではありませんが、想像するに、優れた中華料理の価値基準と、上質な寿司の価値基準は、素材、調理法のいずれをとってみても、おそらく違うと思うのです。中華料理と寿司の二つの料理の、クォリティを直接に比較判断する【共通の基準軸】など、存在しないのではないでしょうか。すなわち、両者に通じる客観的価値基準など存在しないのです。旨いほうが優れているなどという意見は、それこそ個別の料理に対する好みの問題でしょう。

つまり、ベートーヴェンが優れているのはクラシックという音楽の中でのことで、そのことに異論はありません。しかし、たまたまですが私はAKB48がどういう音楽なのか知らなかったので、「進歩とはクォリティの向上である」という今回の星野さんの講演の文脈上、いったいどういう基準軸で「両者のクォリティの比較」をされておられるのか、非常に興味があったのでお尋ねしたのです。

しかしその回答は前述したように、まったく具体性を欠いており、ベートーヴェンのどういうところが、AKB48のどういうところより、どのように優れているといった、音楽評論の基本になる部分についての、具体的説明は一切ありませんでした。つまり、個別音楽ジャンル内部の価値判断の理由すら、「歴史が証明する」「みんながそう言っている」としかおっしゃらなかったではありませんか。

仮に星野さんのおっしゃるように、音楽には個別ジャンル内の価値だけでなく、普遍的な音楽全体を貫く価値があるのだとすれば、その普遍的な価値基準に従って、ベートーヴェンAKB48の【具体的な直接比較】が出来るはずです。また、していただかなければ「進歩とはクォリティの向上である、しかるにこれこれの音楽(例えばAKB48)は進歩していないじゃないか」という星野さんの今回の講演におけるご主張は、まったく説得力を欠くものとなってしまいます。

今回の議論の論点を、要領よくかつ生産的に集約するためには、星野さんのおっしゃる【音楽における客観的、かつ普遍的で永遠不滅の価値】を、ある程度具体的に叙述していただくことが早道かと思います。ぜひお聞かせください。

星野さんは「文化」を生活習慣の意とのみと解しておられ、音楽を同じ土俵で語るのは無理があるとおっしゃいますが、果たしてそうでしょうか。一般には、衣食住はじめ、技術、学問、芸術、道徳、宗教、政治など、人間が自然に手を加えて形成した物心両面の成果である幅広い対象を文化と解しています。ですから当然、音楽も文化の一部です。

また、音楽が演奏される場と切り離され、純粋に音だけで享受されるようになったのはラジオ、レコード等のメディアが発達した近代になってからのことで、原初の音楽は必ず演奏される場、例えば共同体の祭祀や、収穫の歌、狩猟の歌など、さまざまな「生活習慣」と結びついた形で演奏され、享受されてきたことを考えれば、星野さんのご意見は明らかに歴史的事実に反しています。

そもそもジャズを含む黒人音楽一般が、深くアフリカン・アメリカンの(白人とは異なった)生活習慣に根差したものであることは、当然星野さんもご存知のはずです。南部の奴隷生活とブルースの関わり一つとってみても、黒人特有の生活習慣と彼らの音楽は切っても切り離せない関係にあるのではないでしょうか。

つまり、生活習慣も音楽も同じように文化の文脈で捉えてなんら差し支えないばかりでなく、むしろ生活習慣を抜きにして音楽を考える発想の方が問題があると言わざるを得ません。すなわちエスノセントリズムの問題は、生活習慣においてだけではなく、音楽の価値についての議論でも充分に起こりうる偏見で、たとえばアドルノなどの偏狭なジャズ批判などに、端的にその傾向が現れているのではないでしょうか。

また、音楽に普遍的な価値が無いことは、ヨーロッパ、イスラム、アジア、アフリカなどさまざまな文化的圏を貫く普遍的価値観は無いという理由だけではなく、例えば一般に芸術音楽と呼ばれるクラシック音楽と、現代の大衆音楽であるJ-POPなどは、その目的も価値観も異なっており、とうてい共通の優劣の基準軸など考えられないことからも、簡単にわかることではないでしょうか。

ものすごく話を単純化してしまえば、シュトックハウゼンなどの現代音楽は、売れないからと言って必ずしも音楽としての価値が低いとは言えませんが、仮に「モーニング娘」など、J-POPの新作がまったく売れなかったとしたら、それだけで彼女たちの存在価値は否定されかねません。

音楽を含めた文化的対象に普遍的で客観的な価値など存在しません。これは音楽研究者の常識です。あるのはただ特定文化圏内での価値、あるいは特定音楽ジャンル内での価値でしかないのです。その証拠に、世界各地の民族音楽が、如何に異なる価値体系を持っているか、ちょっと考えてみるだけでわかるはずです。

こうした音楽を考える上での基本的事実について、星野さんはいささか変わったご意見をお持ちなので、そうした発想の元に、自覚せざるエスノセントリズムがあるのではないかと疑問を持ったのです。確か星野さんは民族音楽にも言及しておられたと記憶していますが、でしたら一度小泉文夫さんの著作、例えば氏の対談集『音の中の文化』(青土社)などをお読みになることをお薦めいたします。氏の著作は民族音楽を考える上での基本文献です。そしてそれは「文化の中での音楽」についての基礎知識を与えてくれることでしょう。