10月2日(土)

「音楽には客観的で普遍的な永遠不滅の価値があるのだから、現在まで残っていることで歴史が証明しているベートーヴェンは、AKB48より音楽的価値がある」という面白いご主張をなさる星野秋男氏の講演は、ナカナカ示唆に富んだものだった。

私など、字面でこそなんとなく知っているが、実際に音としてチャンと聴いたこともないAKBなにがしかとベートーヴェンを比較しても、しょーもないんじゃないの〜と思ったが、星野氏はマジメに両者は共に「音楽」であるのだから、クォリティにおいて優れているベートーヴェンの方が偉大であるとおっしゃる。

そもそも今回の講演のタイトル「音楽にとって進歩とは何か?」というテーマからして、極端ではあれ、こうした「比較」の話が出てくるのはやむを得ないとも言える。

まず星野氏の講演をご紹介すると、「進歩とはクォリティの向上であり、進化とはコンセプションの高度化である」というご主張に基づき、クラシックではモーツァルトからシュトックハウゼンまで歴史を辿り、「進化」はしたが、果たして「進歩」はしているのか、と問いかける。

同じ手法で、ジャズもキング・オリヴァーからフリージャズまで辿り、「前衛」でジャズはデッドエンドを迎え、それ以降は「流行現象」に過ぎないと裁断されたのだ。だがその論法だと、エレクトリック・マイルスもウェザー・リポートも流行に過ぎないということになり、少々同意できないのだが、それは星野さんのお考えなのだからご自由だろう。

しかしよくわからないのが、星野さんのいう「進歩とはクォリティの向上である」というご主張である。私などクォリティ、すなわち質の概念は目的や価値観と切り離せないと考えているので、どう考えても異なる価値体系に属するとしか思えないベートーヴェンAKB48とやらを比較すること自体が無意味に思えるのだ。まるでミシュラン3星の方が街の定食屋よりエラいと言い張っているようで、気持ちはわからないでもないけれど、なんだか可笑しい。

たとえてみれば、星野さんは同じ計算機なのだからそろばんとコンピューターのクォリティが比較できると言っているのと大して変わらない。コンピューターの方が計算機として進化しているという話ならまだわかるが、クォリティ、すなわち品質もそろばんよりコンピューターの方が向上していると言われたら、ちょっと首をかしげてしまうのではないだろうか。

だって、そろばんに求められるクォリティとコンピューターに求められるクォリティって、違うんじゃないの。そろばんの品質は、例えば珠がスムースに動き、ピタリと止まる加工精度、材質が大事だろうし、コンピューターの品質を決めるのはやはり計算速度だろう。どっちも計算というやることは同じでも、求められるクォリティはまったく違う。

つまり、二つのものを比較する時は「両者に適用可能な価値基準」という、「第三項」が必要であるということを星野さんはご存じないようなのである。そろばんとコンピューターを「計算能力という両者に共通する価値基準」で比較すれば、これは当然コンピューターの勝ちだ。比較が出来るし、その意味もある。

しかし「質において」両者を比べようとしても、そろばんとコンピューターに共通する品質基準など存在しない。そろばんにはそろばんのクォリティがあり、コンピューターにはコンピューターのクォリティがある。そろばんどうし、コンピューターどうしのクォリティの比較は出来ても、そろばんとコンピューターのクォリティなど、原理的に比べることは出来ない。

話を音楽に戻せば、クラシックの芸術音楽とされるベートーヴェンの作品と、あまりよく知らないのだが、まあ、大衆音楽にカテゴライズされるであろうAKB48に「共通する価値基準」など、私には想像もつかない。クラシック音楽にはクラシック音楽のクォリティがあり、現代のアイドル・グループ(なんだろうと思う)にはそれなりのクォリティの基準軸があるはずだ。両者は共に音楽とは言え、その目的も価値観も異なっているのだから、それを「音楽の価値」という抽象的な観点から比較すること自体が無意味なのだ。可能な比較は音楽社会学的見地ぐらいなものではないのか。

音楽一般に通用するクォリティ概念など存在しない。例えばジャズのクォリティとロックのクォリティは違う。価値観が違うのだから当たり前だ。そしてそのことからの当然の帰結として、ジャズとロックのどちらかがエラいなどということは言えるべくも無い。あるのは個別音楽ジャンル内部におけるクォリティに過ぎないというシンプルな事実を、星野さんはご理解していただけないようである。

星野さんの論法(音楽に客観的、かつ普遍的な価値基準が存在するという立場)を敷衍すれば、当然のように二つの異なる地域の民族音楽を、「クォリティにおいて」比較できるということになる。こうした発想は、一つ間違えればエスノセントリズム(自文化中心主義)にも繋がりかねないということを星野さんは考えたことが無いのだろうか? もっとも星野さんはエスノセントリズムってことばをご存じでない様子であったが、、、ともあれ、民族音楽にも言及する星野さんは、せめて小泉文夫氏の著作の一冊でもお読みになるべきではなかろうか、、、小泉さんのことは当然ご存知ですよね、星野さん!