think19 -- ジャズを聴くことについての原理的考察 第19回

ジャズ体験の総体とジャズ理解の程度に相関関係があるとしても、比較的短期間に理解が進むファンと、長年ジャズを聴き続けていながらなかなかジャズの聴き所が掴めない人がいるのはどうしてだろうか。
ライヴ体験はミュージシャンの調子によって出来不出来の差があり、一般化するのは難しいので、便宜的にこの問題を所有するアルバムの構成内容、およびジャズに接する姿勢から考察してみる。一概には言えないが、短期間にジャズのポイントを掴める人は、幅広さと深さのバランスが巧くとれている。膨大な数に上るジャズCDから、効率よく、ジャズ史が概観できると同時に、多様なスタイルのミュージシャンの個性が発揮されたアルバムを、偏り無くセレクトすること。これが幅広さである。次いで、チャーリー・パーカーやマイルス・デイヴィスといった、ジャズのスタイルを作り上げた大物ミュージシャンの演奏をじっくりと聴きこみ、その音楽の狙いを理解すること。これが深さだ。
これに対し、大量のアルバムを所有しているにも拘らず、ジャズに対する見方にずれたところがある人のコレクションは、著しく偏っていることが多い。好きなミュージシャンのアルバムはコンプリート・コレクションしているのに、マイルスのアルバムは1枚も持っていないだとか、ハードバップはかなりマイナーなアルバムまで聴いているのに、フリー・ジャズはまったく受け付けない、などなど、偏り方こそ多様ながら、ジャズの全体像に対する関心が薄いことでは一致している。
ここまでの話でも分かるとおり、前者と後者ではジャズに接する姿勢に明確な違いがある。ジャズに対するかかわり方の違いがコレクション内容の相違となり、それが必然的にジャズの全体像についての理解の濃淡につながっているのだ。どちらのタイプもジャズに関心があることに違いは無いのだけれど、前者がどちらかというとジャズそのものに関心を寄せているのに対し、後者は自分の音楽の好みが優先している。
音楽ファンとしてどちらがどうという問題はさておき、ジャズという音楽の全体像を掴むということでは、前者が有利であることは言うまでもないだろう。もう少していねいに両者の発想の違いを点検してみると、前者はジャズという文化現象全体に対する興味、あるいは芸術としてのジャズに対する関心が根底にあるのに対し、後者は自分自身の趣味趣向に強い執着を示している。もちろんどちらが優れているなどという評価は簡単には下せないし、突き詰めれば「人の気質の違い」ということにもなろうが、にもかかわらず、二つのタイプの人間を生み出す社会的背景に着目してみることは、有意義だと私は考える。
歴史的に見ると、明治以降、外来文化に対する人々の姿勢は、海外の見聞を深めて帰国した一部の先端的紹介者(「新帰朝者」などと言った)による啓蒙活動によって、「教えてもらう」ものであった。芸術一般も、文学にしろ絵画にしろ、そして音楽にしてもがすべて外来のものなので、知識階級から啓蒙され、それを一般庶民が享受するという後発国特有のスタイルが定着していた(専門領域で無いので断言は憚られるけれど、日本古典文学や邦楽に対する芸術作品としての視点が一般的になったのは、かなり時代が下ってからのことではないか。その点、当初から日本画を教科の中心とした岡倉天心率いる東京美術学校(後の芸大)の見識は評価すべき。また時代のスパンを広げてみれば、寺院建築はじめ、仏教芸術一般は中国渡来であるが)。
こういう時代においては外来文化、外来芸術に対する自分の趣味を云々することなど無意味であった。そもそもが今まで常磐津や長唄しか聴いたことの無い人々にとって、モーツァルトの音楽がどうしたこうしたといった評価なぞ下せるわけもない。その後、大正デモクラシーにいたる頃には(外来)芸術に対する理解も進み、知識階級周辺ではそれらに対する(教養としての)趣味趣向が語られたりもするが、大衆レベルではまだそこまでは至っていない。
このような状況は第二次大戦後も続き、昭和40年代辺りまでの(クラシック)音楽会、美術展に集う人々の多くは、心底の愛好家、理解者というより(日常性を離れた何か別の価値観を求め)芸術的な雰囲気に憧れる大衆、というイメージで捉えることが出来るであろう。そうした人々は積極的に啓蒙されたいと願ってもおり、「評論家」の社会的需要も切実であった。
こうした社会状況に最初の変化が現れたのは1960年代だろう。アンダー・グラウンド文化、略してアングラ・ブームは、芸術一般に対する見方の変更でありカウンター・カルチャーの顕在化現象であった。しかしそのカウンター・カルチャー自体を紹介し、それらが決して既成の正統文化に劣らないものであることを啓蒙する一連の文化人の存在が要請されたという事実は、1960年代がまだ「啓蒙の時代」であったことを示している。
そして1980年代、いわゆるポスト・モダン期に至って日本の文化状況に決定的な変化が起こる。その背景には日本の経済的発展があるのだが、ともあれ未曾有のバブルを迎えた1980年代後半、人々の意識は大きく変化し始めた。その変化をごく大雑把に要約してしまえば、価値相対主義を背景とした個人的趣味の称揚ではなかろうか。もう少していねいに説明すれば、1980年代にはニュー・アカ・ブーム、あるいはポスト・モダン的気分の通俗的蔓延ということがまずあった。1983年に刊行された浅田彰氏の「構造と力―記号論を超えて」(剄草書房刊)は、かなり難解な思想解説書としては異例ともいえるベストセラーとなり、それに伴ってその言わんとするところの誤解が一般化したのである。
乱暴に要約すれば浅田氏の言いたかったことは、教条主義的左翼思想を背景とした日本の思想界のあまりにも前時代的体質に警鐘を鳴らすため、ソシュールデリダドゥルーズバタイユらを参照しつつ、「すでに分かっていること」をていねいに解説したのだ。しかしそうした彼の真意は伝わらず、むしろ「問題はすでに解かれている」といった通俗的ポストモダン気分が蔓延したのである。実際は、浅田氏は思考のための出発点を示したに過ぎない。であるからして、当時一部で囁かれた「自前の思想がない」などという批判は的外れでしかなく、従ってこの書物は今でもものを考える人間にとって必読書であろう。
「構造と力」の異常ともいえる売れ行きに象徴されるニュー・アカ・ブームは、それ自体としてはある種の啓蒙的役割を果たしたとはいえ、結果として「啓蒙の時代の終わり」を告げるという皮肉な結果をもたらした。説明すれば、問題はすでに解かれており、それがこの世界の現状であるならば、マルクス主義であれその対抗軸である宗教的信仰であれ、準拠すべき絶対的価値基準というようなものはもはや失われているという漠然とした雰囲気が一般化し、その帰結として価値相対主義が蔓延したのである。
ところで、こうした「誤解」が本考察とどう結びつくのか、ひとつ具体例を示してみよう。1980年ごろ刊行され話題となった村松友視氏の著作「私、プロレスの味方です (新風舎文庫)」の「誤読のされ方」が、まさに前述の気分を象徴していると思える。この著書は恐らくはロラン・バルトの「神話作用」にインスパイアーされて書かれたのだろうが、内容は実に分かりやすくかつ面白い読み物となっていた。
村松氏はプロレスを擁護するために「ジャンルの平等」ということをまず掲げた。当時の風潮として相撲、柔道、ボクシングなどは格闘技の正統に属するけれど、プロレスは見世物であるというジャンルによる差別が、実は無根拠であるということをわかりやすく示したのである。今手元に本がないため正確な引用はできないが、一流のプロレスラーと二流のプロレスラーというランクの違いはあるけれど、一流の格闘技とか二流の格闘技というようなジャンル間のヒエラルキーには意味がないという趣旨であった(同じく出典の引用は出来ないが、「ジャンル間の平等」については、今や長野県知事である田中康夫氏も同趣旨の主張していたと記憶している)。
格闘技を音楽に置き換えてみれば、ポピュラー音楽に対するクラシックの優位が常識であった当時の偏見に対する、実に的を射た反論でもあると納得したのだが、それが時代とともに「ジャンル内のランク付けも無意味である」というところにまで、拡大解釈というかむしろ誤解というべき状況が広がってしまった。ジャンル内の評価が無意味となれば、後は個人の好みしか残らない。
そうした誤解の背景には、ベルリンの壁の崩壊によって誰の目にも明らかとなってしまった「イデオロギーの時代の終焉」と、そこから導き出される絶対的価値観への疑問がある。もちろんそこに至るには、前述した漠然としたポスト・モダン気分が後押ししたことは言うまでもない。すなわち、あらゆる価値は各自が自由に決定すればよいという価値相対主義の台頭と、そこから生じる個人の趣味の称揚には、80年代から90年代に至る社会状況の変化が色濃く影を落としているのである。
さて長々と回り道をしてきたが、冒頭の、「ジャズに接する二つの態度」を生み出す時代背景についてのアウトラインはお分かりいただけたかと思う。どちらの態度をとるかはその人の気質に由来するだろうが、その各々の人たちが暗黙の前提とする物の考え方自体が、実は歴史的なものであり、決して彼らが独自に発明した物ではない。
すなわちジャズを外来文化として捉え、それをまだ知らぬものとして接するような態度は明治以来の啓蒙的な文化受容の流れに属し、個人の好みに最重点を置き、ジャズを完全な趣味の対象とするような姿勢は、通俗化されたポスト・モダン的態度といえるだろう。もちろん実際のジャズ・ファンの大部分はその中間に位置し、どちらの方向に傾くかは程度問題であるが、本人たちも自覚していないような「ジャズ観」の基礎部分には、こうした二つの相反する流れがある。
そして現在ただいまのジャズを取り巻く状況を概観すれば、「古臭い啓蒙主義はダサく、個人の好みを優先した自由な選択こそが求められている」といったところではなかろうか。ところで、こういった風潮に人々は本当に満足しているのだろうか。すべての価値基準を否定した後に残った個人の趣味は、なるほど各人の自由な選択を促したかもしれないが、それによって失われた物もある。例えばファン同士の濃密なジャズ談義の楽しみである。
一見自由な選択はジャズ談義に華を添えるようにも思えるが、各人が各々の価値観を(個人の趣味として)絶対的なものと認めるとするならば、会話の流れは「Aが好きです」「そうですか、私はBが好きです」といった断片の応酬にしかなりえず、それを避けようとして「私はこれが好きです」「なるほど、私もそれが好きです」という状況を期待すれば、必然的に同趣向のファンしか会話に参加できないということになる。
実際にそういう状況はすでに起こっていて、90年代以降音楽ファンの「タコツボ化現象」が大きな問題とされている。タコツボ化現象とは、不必要なまでに細分化された音楽ジャンルの内部でしか通用しない特殊な価値観が異常に発達する一方、少しでも「趣味の違う」音楽ファンとはまったく会話が成立しないような閉鎖状況のことで、聞くところによれば、そうした閉塞感は他の文化ジャンルにおいても問題となっているようである。
こうした状況を個人の側から眺めればどうなるか。ある人間の趣味趣向とは、突き詰めてみればその人間の体験の総体に由来する。幼児期に聴いた音楽、恋人とのデートの際BGMとして流れた音楽など、それらは偶然の産物であると同時に、より大きな視点から眺めれば、日本の置かれた音楽状況、時代背景といった必然的条件によってあらかじめ規定された、限定された体験でしかない。要するに個人の趣味趣向というようなものは、本人が思っているほどには独自のものではありえないのである。
百歩譲ってそれらがユニークなものであるとしよう。そうするとどうなるか。ある人物が固有の好みに従ってジャズ・アルバムを収集するとする。それらを聴くことによって得られる体験は、原理的にその人間がもともと持っていた趣味趣向を反映した物である以上、彼の感覚を深めることはあるけれど広げることはあまり期待できないだろう。彼はいつまで経っても同じ感覚の持ち主なのだ。
ところでこうした個人的価値観の反映であるコレクションは、他者にとってどれほどの意味があるのだろうか。もちろんそうしたコレクションが他人にとって有意義であることもあるけれど、一般的に言って、それは僥倖のような出来事だろう。たとえは悪いけれど、素人骨董収集家の所持品がロクな物でない事は、テレビの「なんでも鑑定団」を見れば納得せざるを得ない。誰しもが青山二郎白洲正子になれるわけではないのだ。