ジャズの価値を決めるのは、歴史的に集積されてきた多くのジャズ・ファンの共同主観であるとして、やはりある程度明確にしておかなければいけないのは「ジャズ・ファン」の範囲だろう。その作業が済んで、ようやく本考察の最終目標である「ジャズ的価値」と「芸術的価値」の関わり、関係性をどう解きほぐすのかという問題にとりかかる、という手順になる。
卑近な例からはじめてみよう。ジャズ喫茶という職業柄、実に様々な"ジャズ・ファン"と接するのだが、そのダイナミック・レンジの広さはとてつもない。ジャズを聴き始めて間も無く、CDをようやく5枚購入しましたという人もジャズ・ファンなら、レコード、CD合わせて数千枚所有し、頼まれればライナー・ノートの1〜2枚も気軽に物するようなセミプロ・クラスもジャズ・ファンなのである。
両者を同じものとして扱うのはいかにも不自然だ。かといって彼らのCD所有枚数の平均値をとって、それをジャズ・ファン代表とするのもどこかいかがわしい。再三触れたように、文化的対象は自然科学のような数量的処理になじまないものなのだ。しかし問題解決のヒントがまったく無いというわけでもない。
実際にあったことなのだけど、若いジャズ・ファンの中にはいわゆるクラブ系の音源しか聴いていなくて、それらをジャズと思い込んでいる人たちがいる。同じような例として、ロック・ファンからの流入組みは得てしてエレクトリック・ジャズしか聴いたことが無く、たとえばジミー・ジフリーなどを聴かせると、「えー、こういうのもジャズなんだ」などと驚かれるケースにたびたび出会ってきた。また、ジャズ入門をうたった名盤案内などからジャズに入った「お勉強組み」に、キップ・ハンラハンやマシュー・シップの新譜などを聴かせると、これまた「これってジャズなんですかー」という声が返ってくる。
こうした実例から見えてくるのは、ジャズ・ファンの範囲の問題はジャズの範囲の問題でもあるということだ。何をもってジャズとするのか、どこまでがジャズなのか、ジャズの中心というのはどういうものなのか。しかしこの問題は既にthink12で論じてあるとおり「われわれが『ジャズ』のような自然発生的概念を定義しようとするならば、時間軸に沿って変容し続ける内包と外延の『良い循環の輪』の中に身を置きつつ、時代時代の『ジャズの共通項』なるものを眺めるしかない」のである。
「ジャズ・ファンの範囲」を確認する作業の過程において「ジャズの範囲」が問題になったわけだが、ここでもジャズ定義の際われわれの頭を悩ませた「内包と外延の循環」に似た循環論法が顔を出す。ジャズという音楽を定義するには、それを聴いている人間、すなわちジャズファンというものを確定せねばならないが(なぜなら、ジャズとはジャズファンによって構成された共同幻想の対象なのだから)、そのためにはジャズとは何かが知られていなければならない(なぜなら、ジャズファンとはジャズに関心を持つ人々の集合なのだから)。
一見解けそうもないこのアポリアも、「時間」という要素を導入すれば容易に解決できる。ジャズの概念が時間と共に変容するように、ジャズファンもまた個人としても集合としても、日々変容を続ける。5枚しかCDを持っていなかったジャズファンも1年後には50枚のCDを聴いているかも知れず、今日のジャズファンが明日はボサノヴァ・ファンとなり、昨日の演歌ファンが今日はジャズを聴いてみようかと思うかも知れないのだ。
というか、事実としてこのような流動的集合体である「ジャズファン」たちの、歴史的(誤解も含めた)ジャズ理解の総体が、今われわれが問題としている「ジャズ」なのである。要するにジャズとジャズファンとの関係は、時間軸に沿って相互に作用しあう、いわゆる弁証法的関係が成立している。ある時代の「誤解」も後の世には正解となるかも知れず、あるいはまた、誤解したままついにジャズをつかみ損ね、ジャズファンであることをやめてしまう人たちもいることだろう。
この作業を通じもうひとつの課題が現れる。「ジャズ」という概念を把握しようとするときに、われわれに求められた「良い循環の輪」の中に身を置くということは、具体的にどういうことなのか。外延から入っても、内包からでも良いけれど、どちらにしても、サンプルが少なくてはとうてい「良い循環」に身を置くことは不可能だ。
ジャズの外延として、マイルスの『リラクシン』『クッキン』『ラウンド・アバウト・ミッドナイト(紙ジャケット仕様)』の3枚のアルバムを聴いたAさんと、同じくジャズの外延としてマイルスの『ビッチェズ・ブリュー(紙ジャケット仕様)』『マイルス・デイヴィス・アット・フィルモア(紙ジャケット仕様)』『アガルタ(紙ジャケット仕様)』の3枚を聴いたBさんとでは、両者の構築するジャズ概念の内包が著しく異なるため、ジャズとは何かについて共通の認識に到達するのが難しかったとしても、それはむしろ当然のことであって、われわれにはその理由が直感的に理解できる。事例が少なすぎるのである。
同じことは内包にも言えて、「ジャズはリズミックな音楽である」というそれなりに正しい内包をジャズの"必要条件"として捉えてしまうと、例えばポール・ブレイの『デュオ+1』(Steeple Chase)などというアルバムは「ジャズではない」ということになりかねず、また「ジャズは即興音楽である」という、これまたそれなりに正当性を持った内包を"必要条件"としてしまえば、編曲された「ビッグ・バンド・ジャズ」や「ウエスト・コースト・ジャズ」はジャズの本質から外れているという、偏狭な見解に陥りかねない。
ジャズの外延としてたった3枚のアルバムしか知らなければ、そこから引き出される内包は偏ったものとなろうし、ジャズを定義する多数の内包の一つだけを重視してしまえば、これまた多くの優れた演奏がジャズ的価値から外れた周縁物と見なされかねない。ジャズに限らずどんな事象だろうが、対象と接する機会が少なければまっとうな理解に到達できるわけが無い。
ありがちな伝説に「1枚のアルバムからジャズの本質を理解した」とか「あのライヴ体験でジャズがわかった」などという話があるが、そういうことが絶対にありえないとは言わないけれど、ジャズという優れて文化的かつ芸術表現として深みを持った対象の全体像が、局限された体験で把握できる可能性はきわめて低いと見たほうが健全なのである。
だがこうした「伝説」の背後に潜む、(論者たちも意識していないような)暗黙の前提を探ることは意味がある。こういうことを言う人たちは、個人の感覚を重視しすぎているのだ。つまりは「優れた」感性の持ち主は、わずかな個別的体験でも(ジャズのような)新規に現れた対象の本質を掴めるのだと。だがこの前提は、感覚なるものが一定の普遍性を備えているという条件でのみ可能なのである。くどいようだが、それが単なる憶見に過ぎないことはこの論考が繰り返し論証しているところである。
長年クラシックを聴き続けてきたファンは、それなりに一定の美意識の基準を持っていることだろう。熱心なロックファンもまた、彼らなりの音楽に対する厳しい判断基準を持っている。しかしそれらの基準軸が、そのままジャズにも適用できるかどうかは未知数なのだ。
またこうした言説を対象のほうから考察してみれば、ジャズの本質なるものが1枚のCDであるとか特定のライヴによって表現されうるという前提に立っている、ということがいえるだろう。だがジャズのように自然発生的で混交的、かつ歴史的に変化し続けてきた対象を、「本質」というようなスタティックな概念で把握しようというところにそもそもの無理がある。
ここでもまた常識が顔を出す。ジャズとは何かを知ろうと思えば、より多くのライヴを体験し、より多くのCDを偏らずに聴くしかないという常識が。ジャズ的価値観を把握するとは、多くのジャズ演奏の範例を聴取することによってジャズの"類概念"を構築し、その音楽がどこに価値を置いているのかを理解することである。
話を「ジャズファンの範囲」に戻せば、個々の例外はあるにしろ、総体として眺めれば、5枚しかCDを聴いたことが無いジャズ入門者より、50枚のCDを聴いたファンの方が相対的に正確なジャズ認識を持っていると想像することが出来ようし、一度もライヴ体験の無い書斎リスナーより、数多くの優れたライヴを経験したファンの方が、より実感的にジャズを理解しているであろうと類推することが許されよう。
先ほどジャズのような文化事象は数量的処理になじまないと言ったが、思考実験のレベルでなら、その結果を絶対視しないという条件で数量的理解が許されるはずだ。すなわち5枚のCDを聴いたファンの把握しているであろうジャズ概念より、50枚のCDを聴いたファンのジャズ概念の方が、相対的にジャズの実態に近づいているであろうと類推することは合理的である。もちろんライヴ体験においても同様のことが言え、一般的には、CDソース、ライヴ体験の両者を総合した「ジャズ体験」の多寡が、より妥当なジャズ概念把握の条件となる。
結論を言えば、何枚以上のCDを所有していること、とか、何回以上のライヴ体験があること、などという定量的な定義は無意味としても、ジャズ体験の総体がある水準に至った音楽ファンをもって「ジャズ・ファン」とするという理解は、それなりに合理的である。というのも、そうした集団は一定の妥当なジャズ概念理解に到達していると類推することが出来るからだ。しかしこうしたことは、ジャズ・ファンにとっての昔からの常識を再確認したにすぎない。
とは言え、こうした常識は無意味ではない。というのも一部には、ジャズ体験の多寡とジャズ理解の間には相関関係が無いという見方が存在するからである。こうした意見の人々は、恐らく個人の資質に重点を置いているのだろう。確かに数千枚のアルバムを所有していながら見当はずれの発言をする人もいるし、せいぜいが数十枚のジャズCDしか聴いていないにも関わらず、かなり正確にジャズという音楽の聴き所をつかんでいる優れた感性の持ち主も存在する。
しかしジャズという現象をマスで捉えようとすれば、総体として眺めたジャズ・ファンの全体像は、やはり体験と理解の間に相関関係がある。つまりはジャズという類概念を比較的少数の範例で構築できる人と、相当量のサンプルが無ければ対象の全体像が描けない人の差は確かにあるけれど、どちらにしろ、体験の累積値と理解の進み方には相関関係があることに違いはないというわけだ。
ところで、こうした考察の過程で図らずも面白い現象が浮かび上がってきた。なにゆえ比較的少数の体験で全体像を把握できる人と、大量のアルバムをコレクトしているにも拘らず、なかなかポイントが掴めない人の違いがでてくるのだろうか。
この問題は、サンプルの構成内容すなわち所有するコレクションの中身という側面、また個々のファンの資質の違いという側面、そして実はその両者には相関関係があるという、ジャズ・ファンにとって実に重要かつ興味深い話につながる。