11月9日(土)

柳樂光隆さんの講演『ロバート・グラスパー以前 / 以後』、私の長年の懸案にようやく答えが出たという意味では、大きな収穫だった。世代による感覚の違い、何をもって「ジャズ」とみなすか、といった一連の疑問が、氷解、とまでは行かないにしろ、ある程度見当が付いてきた。

要するに、「後から遡って聴いた人」と「同時代に聴いて来た人間」の認識のズレが、まずある。また、後から眺めてみれば明らかに誤解だった「何もってジャズとみなすか」といった「歴史的問題」が、今また起こりつつあるということも見えてきた。

まず世代による感覚の違いについて。これはごく一般的な意味では当然「ある」のだけど、私がcom-postにおける益子博行さんとの『往復書簡』で問題としたレベルでは、とりあえず「ない」と言い切っていいように思う。この件について話し出すと長くなるが、今になってみれば、「ポスト・モダン・ジャズ」をキーワードのひとつとする「あの問題」は、私の「考え過ぎ」だったようだ。ことはよりシンプルだった・・・

つまり、「知覚・5感」のレベルで世代間に本質的違いが生じているということではなく、それらによって感受した知覚対象に対する「意味付け」のレベルで差異が生じているということだ。この現象は歴史的に常に起こっていることで、取り立てて驚くことではない。

また、何を持って「ジャズ」と称するかについては、1950年代から60年代初頭にかけ、銀座ACB(アシベ)など、ロカビリーのライヴハウスを「ジャズ喫茶」と呼んでいた昔話をひとつ挙げれば充分だろう。

古すぎると言うなら、1980年代から90年代にかけ話題となった、イギリス・クラブシーン発祥のアシッドジャズなども、私たちジャズファンからみれば「どこがジャズなの?」といった代物だったのはご存知のとおり。

誤解を避けるために言っておけば、ロカビリーにしろアシッドジャズにしろ、「ジャズではない」(後者はとりあえず「ジャズ」と呼んで差し支えないものもある)にしても、別に「悪い」あるいは「間違った音楽」ではなく、単に「ジャズとは違う」というだけのことだ。

付け加えるならば、前者は明らかに「呼称の違い」に過ぎないが、後者は「対象に対する意味付け」の違いがあったように思う。言うまでもないが音楽にジャンルがあらかじめ内包されているわけではなく、それを聴く人間がしかるべく「意味付け」するに過ぎない。

ということは、「ジャンル呼称の正解」などというものは無く、言語の恣意性のごとく、突き詰めれば慣用の多数決ということだ。ただ、「豊かな意味付け」と「貧しい意味付け」があることは事実で、ロカビリーをジャズと思っても単なる誤解に過ぎないが、仮にアシッドジャズが「ジャズ」から「新しい意味」を取り出したとしたら、それは「生産的誤読」と言えなくも無い。

「生産的誤読」は歴史的に常に生じており、それによって文化が豊かになった面は否定できない。だから「正統性」を錦の御旗とする教条主義に組しようとは思わないが、かと言って明らかに貧しい意味付けを看過するのは不親切というものだろう。

講演内容に触れれば、今回柳樂さんによって紹介された音源はどれも魅力的で、音楽的に充分楽しめた。ただ、私の耳には明らかに「ジャズでは無い」音楽ジャンルとして聴こえるものが大半で、それらの音源と「ジャズ」との関わりについては、いまひとつ明解さを欠いた嫌いはある。

付け加えれば、「ジャズ的」であるかどうかという判断軸と個人的嗜好はほとんど関係が無かった。つまりジャズとの連続性を感じ取れても面白くないものもあれば、まったくジャズと無関係でも極めて刺激的なものもあるというということで、というか、むしろジャズから吹っ切れているものに魅力的な音源が多かったことは言っておくべきだろう。

講演のテーマのひとつであるグラスパーとジャズの関係の説明が明快さを欠いた理由は、おそらく一般的ジャズファンが「ジャズ的」と感じ取る部分と、柳樂さんが思う「ジャズ性」の微妙なズレに原因があるように思う。言うまでもないが「一般的ジャズファン」などというものは便宜上のものに過ぎず、具体的には、ルイ・アームストロング、エリントンからパーカー、マイルスを経て現在に至る、いわゆる「ジャズ史」を容認するファンということだ。

クラブジャズ、ヒップホップが大きなテーマとなっているロバート・グラスパーの音楽をジャズと結びつけて考えるという今回のテーマに即して言うならば、少なくとも1970年代以降のマイルスのエレクトリック・ジャズ、同じくオーネット・コールマンの70年代以降の活動を前提とした「ジャズ史」との連続性を、ある程度の説得力を持って語れなければ、私を含めた「ジャズファン」は納得しないと思う。

はっきり言って、私の耳にはロバート・グラスパーの音楽がジャズの未来を切り拓くようにはまったく聴こえなかった。要するに、今日聴いたグラスパーの音楽を、あえて「ジャズ」と呼ぶ必要はないと思う。しかし繰り返すが、そのこととグラスパーの音楽の良し悪しとは何の関係も無い。一ミュージシャンとしては、グラスパーは別に悪くない。

まあ、彼が初期に影響を受けたらしいハンコックなどに比べればはるかに小粒ではあるけれど、それは時代を考えれば致し方ないことだろう。ウェイン・ショーターがいまだにジャズシーンの頂点に君臨してしまうのが「今のジャズシーン」なのだから・・・

最後に思うに、柳樂さんと同じような「ジャズ観」の持ち主は潜在的にかなりいると思うので、柳樂さんはその代表として、いわゆる「正統ジャズ史」を容認する「ジャズファン」との「違い」を冷静に分析してみると面白いと思う。