8月9日(土)

林建紀さんによるジミー・ランスフォード特集、いろいろと考えるところがあった。それはまず、ジャズをブラック・ミュージックの文脈で見直すことであり、また、エンターテインメント・ミュージックとしての視点で再評価してみることだ。これはすでに中村とうようさんがやっていたことだが、最近そのあたりが忘れられているように思う。

後者は、このところ小針俊郎さんがやっておられたアメリカン・ショービジネスの中のジャズという視点が素晴らしかったが、これは白人音楽中心で、それに対し、今回の林さんの講演は黒人娯楽音楽の側から見たジャズの源流。つまり両者の講演を押さえて置けば、娯楽音楽、あるいは大衆音楽としてのジャズが総覧できるということになる。

初めて見るランスフォード楽団のステージは、娯楽と洗練が巧みにブレンドされた素晴らしいもの。今回の講演の2大テーマ、ランスフォードの再評価と、クインシー・ジョーンズに繋がるブラック・エンターテインメントの源流としてのランスフォード、という視点の導入部としては実に的を射たもの。

音源としてはサイ・オリヴァーのアレンジが果たした役割やその影響などが手際よく提示され、最後を飾るクインシーのライヴ映像、懐かしの「愛のコリーダ」で締めくくるあたり構成も実意に見事。

というわけで、あまり知名度のないジミー・ランスフォード再評価は成功したと思う。しかしここからが微妙で、じゃあ、ごくふつうのジャズファンがランスフォードを聴くようになるかというと、これはちょっと疑問。というのも、彼の音楽はリズムもばっちりアンサンブルの乱れなど微塵もないが、林さん自身が講演で解説していたが、ソロイストは平均点。

つまり「ジャズ耳」で聴くことを考えたら、やはり従来の評価はやむをえないのではないか。しかし、ちょっと視点をずらし、ブラック・エンターテインメントという方向で聴けばかなり楽しめるというファンはいると思うのだ。

要するに、ランスフォードはなまじ「ジャズ」なだけに、ちょうどいい塩梅のファン層に巡り会っていないのだ。これは、紹介の仕方に問題があったからだと思う。こうした音楽とファン層の「すれ違い」は現代もあって、最近一部で話題のロバート・グラスパーなども、従来のジャズファン層に無理やり「これがこれからのジャズだ」などと強弁しても、とうてい納得してもらうのは難しかろう。

しかし、グラスパーがつまらない音楽かというと、別にそういうことでは無いのだと思う。こういう音楽を好むファン層は確実にいるのだし、現にそういった層からの反響は大きいようだ。

そしてここに、古くて新しい「名称の問題」が絡んでくる。いまどきの若い方々には想像もつかないだろうが、1960年ごろはハワイアンもロカビリーも「ジャズ」と思われていたのである。同じように、近頃のアメリカで言う「ジャズ」も、日本人の感覚からするとだいぶイメージが違うものが多い。

これは音楽の内容の良否とは別の、カテゴリー認識の違いで、その辺り、ファンも書き手ももう少し整理して考えないと、音楽の普及というか、簡単に言ってしまえば音楽とファンの幸せな出会いがうまく機能しないのではないだろうか?