3月10日(土)

『ラティーナ』で健筆を振るわれるラテン・ミュージック評論家、山本幸洋さんに講演をお願いするのは今回が初めて。昨年、『音楽夜噺』主宰の関口義人さんと共催で『ジャズとワールド・ミュージックの微妙な関係』を開催した際にお付き合いが始まり、今日の『ニューヨーク52丁目・バードランドと53丁目・パレイディアムはお隣さん』と名付けられたイヴェントが開かれたわけだ。

内容は、ジャズとラテン・ミュージックの浅からぬ関係を音で辿るというもの。ジャズ評論家の盲点となっている部分を、ラテン音楽全般に詳しく、ジャズについての知識もある山本さんに「違う角度」から解説していただいた今回の講演、個人的に眼からウロコの部分がかなりあった。また、お客様であるジャズファンの方からも同様の賛辞をいただき、昨年のジャズとワールド・ミュージック双方の人脈交流の成果が早くも現れたわけである。

講演の趣旨は、有名なバド・パウエルの《ウン・ポコ・ロコ》や、ご存知アート・ブレイキーの《チュニジアの夜》を、ラテン・リズムのジャズへの導入という視点で再認識しようというもの。確かに私たちジャズファンはこれらの演奏をパウエルや、リー・モーガンウェイン・ショーターの名演として聴いてきたが、マックス・ローチの、例の“チンチキ・チンチキ”という“奇妙な”リズムや、ブレイキーの一風変わった、しかしカッコいいドラミングのルーツについては、あまり話題にのぼることがない。

これらが実はラテン・リズムのジャズへの導入であったということを知り、あらためてそうした視点でジャズを眺めてみれば、ジャズがヨーロッパ由来の楽器、平均律フォークソングなどと、アフリカン・アメリカン独自の文化、身体感覚の融合した音楽であるという従来の理解と同時に、「ラテン文化圏」という第3項の重要性を再認識することとなった。

こうした視点(アメリカ音楽におけるラテン文化の再評価)は、近日中にcom-postに連載する予定のロング書評『“アメリ音楽史”を読む』のテーマとも繋がる。言ってみれば、ある程度予備知識のある「再確認」作業だった。

そしてもうひとつの、かなり個人的な眼からウロコは、今までいまひとつ評価の高くなかったティト・プエンテとか、エディ・パルミエリといったミュージシャンの「聴き方」が、まさに「あっ、そうか」という塩梅にわかっちゃったことだった。言ってみれば「ジャズ耳」の弊害である。

ご説明しよう。私だけ(なにしろ毎日8時間近く40年以上ジャズを聴き続けりゃ“職業病”にもなろうってもんです)のことなのかもしれないが、今まで「ジャズとしても聴ける」彼らラテン系ミュージシャンの演奏を、別に論評するわけでもなく自然に聴いている時でも、無意識に「ジャズとして」聴いちゃっているんですね。そうするとソロの塩梅など、どうしたって“本場もの”には及ばない。

しかし、そうした無意識の“枠”を外して聴いてみると、これはこれで立派に楽しめる素敵な音楽なのだった。具体的に言えば、ソロよりリズムを中心に聴けば、彼らの演奏はジャズとはまた違った良さ、面白さがある。

この発見は大きい。かなり一般化できそうなのである。というのも、つい最近com-postのクロス・レビューでも同じ体験をしたからだ。ロバート・グラスパーの新譜、これを「ジャズとして」聴けば、まあ、評価は知れている。しかし、そうした“枠”を外せば、立派に楽しめるグッド・ミュージックなのだ。たとえ斬新さは感じられずとも…

もしかすると、こうした聴き方を「アタマで聴いている」と思われる方もおいでかもしれないが、ちょっと違う感触を持っている。だって「無意識(つまり身体)の領域の出来事」なのだから。これから先はthinkで展開すべき話かもしれないが、こういったたぐいの「身体の無意識」な「価値判断」は、自覚しなければ本人にとっては自明なものとして感じられる「実感」だろう。

予告すれば、私がthinkでちょっと触れた「白耳・黒耳」といった話は、それ自体実在的なものではなく、「身体の無意識の秩序」を自覚化させるための概念装置だぐらいに考えていただければ幸いだ。そこにラテンという「茶耳」というべきか「褐色耳」というべきか、新たな価値体系が参入し、話はより複雑に、しかし極めて興味深くなっていく。

付け加えれば、当然イスラム圏という(これはまさに「褐色」かな)中世における音楽先進地域の感受性(元祖ラテン、スペインはイスラム圏に統合されていた時期がある)も問題となるだろうし、そしてそれらが相互に影響しあって今日の音楽文化があることを考えれば、こうした地域、文化独自の感受性と、それらの相互浸透作用を無視した音楽理解は極めて表層的なものとならざるを得ない。

もちろんこうした発想は私独自のものではなく、『アメリ音楽史』(講談社選書メチエ)で、似た主旨の見解を大和田さんがより精緻に展開されているので、それを「読む」ことによって私自身の理解を深めようと思っているところだ。