6月6日(土曜日)

非常に充実した一日だった。シンコー・ミュージックから出版された新著『モダン・ジャズ革命』をテーマに、編集に関わると同時に執筆もされている藤田正さんと、このところラテンがらみで親しくお付き合いさせていただいている執筆者の一人、岡本郁生さんによる講演、まさに目からウロコの連続だった。

講演は二部構成で、第一部は藤田さんが担当する「マイルスとモダンジャズ」、第二部は岡本さん担当の「意図的に消された?“ラテン・ジャズ”」。

とりあえず総括じみた言い方をさせていただくと、藤田さんにしても岡本さんにしても、もちろん深く音楽を聴き込んだ上で著述活動をされているのだけれど、いわゆる「閉じたジャズ村」の住人ではない。これがいいのだ。私たちが見落としていたり、あるいは思いもよらない「視点」から当てられたジャズに対する見方が、ジャズでご飯を食べさせていただいてほぼ半世紀の私に、「あ、そうなのか」と眼を啓かせてくれたのだった。

たとえば、マイルスの音楽を「時間軸に沿って展開される絵画である」と喝破された藤田さんの発言は、それだけで私にとっては千金に値する。つまり、なんとなくマイルスの音楽に対して感じてはいたけれど、うまくことばにできなかった思いを藤田さんは見事に言い当ててくれたのだ。

また、ジャズとラテンの違いを、それぞれ「個人のソロに焦点を当てた音楽」と「全員が作り上げる音楽」の違いであるとの実に簡明な説明も、このところラテンづいている私にとって「ふむふむ、そうだよね」と大いに納得なのだった。そしてこれは、ラテン・サイドから見た岡本さんの「ジャズに対する不満」に対する、一種の回答になっているようにも思えた。

つまりジャズとラテンは「聴きどころ」が微妙に違うのだと思う。もちろんそれはどちらかが優れているという話ではなく、「単に違う」ということなのではないだろうか。

何しろ『モダン・ジャズ革命』は内容が刺激的かつ多岐に渡っているので、どうしても編集担当の藤田さんが受け持つ第一部は長くならざるを得ない。いきおい岡本さんの第二部は若干急ぎ足に。岡本さんの言い分を要約すると、ラテンはジャズファンから「蔑視」されているんじゃないか? というものだが、私は個人的にそのように思ったことはないので、若干「考え過ぎでは?」と感じたが、少し距離を置いてみるとその発想、わからないでもない。
というかその件を掘り下げたいがために、岡本さんには「日本におけるラテン・ミュージック受容の歴史を講演してください」とお願いしたのだった。簡単に言ってしまえば、いわゆる「洋楽」が日本に受容されだした60年代、ジャズはコルトレーンに象徴される「深刻かつ真面目」な音楽として受け取られたのに対し、マンボやチャチャチャは陽気で楽しい南国の音楽といったイメージで親しまれていたように記憶している。

だからその辺りから説き起こさないと、岡本さんの「不満」の原点が見えてこないように思えるのだ。というわけで、6月20日に行われる岡本さんの「日本のラテン」講演が、今回の第二部の内容を補うことになるように思う。

しかし岡本さんの見方は奇しくも私の「音楽観」を逆照射してくれた。というのも私自身は長年「ジャズ漬け」の生活なので、音楽観も自然と「ジャズ寄り」に偏っていると思っていたのだが、どうやら私は無意識の内に聴く音楽ジャンルによって耳のダイアルをチューニングし直しているようなのである。ジャズは「ジャズ耳」に、そしてラテンはまだぜんぜん出来上がってはいないけれど、とりあえずの「ラテン耳」にと・・・

まあ、仕事柄ジャズは毎日聴いているけれど、それとバランスをとるように自宅ではクラシック、あるいはワールド・ミュージック系の音楽しか聴いていない。こうした生活習慣からなのか、ジャズはジャズ、ラテンはラテンとして楽しんでおり、どちらが上とか考えたことはないのだ。もちろんそれはロックやクラシック、あるいはノイズ系音楽についても同様である。

ともあれ講演の内容が非常に高く充実していたので、必然的に打ち上げも大いに盛り上がり、音楽好き同士の楽しい会話が夜遅くまで続いた。既に常連講演者となっていただいている岡本さんはもとより、今回初登壇いただいた藤田さんにも今後「いーぐる連続講演」への登壇をお願いしたい次第です。お二方、今後ともよろしく!


さて、濃密な一日はまだ終わらない。みなさんと別れた後、村井さんと二人で「代官山ロッジ」に、友人である原雅明さんと柳樂光隆さんがD.J.をやるイヴェント「Free Jazz Undergrounnd」を聴きに出かける。

若干道に迷った末たどり着いた「代官山ロッジ」は、こじんまりとした素敵な空間。既にイヴェントは始まっており、私たちが入っていくと橋本徹さんが回している。橋本さんのD.J.は以前渋谷の「Bar Music」(ここも素敵なお店)で体験しているが、実に気持ちの良い音が私たちを迎えてくれる。音楽が良いと自然と気持ちもほぐれ、すぐに場に馴染めるものだ。

さっそく原さん柳樂さんらと挨拶。そこで小林径さんを紹介され、いろいろと楽しく音楽がらみの話をする。D.J.を終えた橋本さんも加わり、私の知らない世界の面白い話が聞け大いに知見が広がる。

岡本さんの「ジャズファン、ラテン蔑視論」とも若干繋がるかと思うけれど、一部のジャズ関係者はD.J.を「ジャズをネタにして」と面白からず思っているようだけど、私の見方はまったく違う。

素材としての音楽を「より良く聴かせる技術」ということでは、D.J.のやっていることは私たちジャズ喫茶のレコード係とまったく変わらない。いささかエラそうで気が引けるけれど、私はかける音楽ジャンルや技術の細部こそ異なれ、ジャズ喫茶レコード係は元祖D.J.だと思っている。だから私はD.J.のみなさんに対しては、一種の「同業者意識」を持っているのだ。

たとえば、この夜の原さんの選曲がオーネットを使ったかなり先鋭で気持ち良いものだったので原さんにそう言うと、原さんは「後藤さんが来たので好きそうなオーネットをかけた」と言ってくれるではないか。実に嬉しいですね。お客の様子を見ながらアルバムを選ぶのはジャズ喫茶も同様、しかしそれを瞬時に判断し、見事場の空気に合わせる原さんのセンスはやはり凄い。

そう言えば、つい最近シンコー・ミュージックから出た『ポスト・ロック・ディスク・ガイド』の巻頭の原さんの記事がたいへん面白かったことを伝えようと思っていたけれど、言い忘れてしまったなあ。ギル・エヴァンスを例に挙げ、「音楽の聴きどころの移行、あるいは変化」について、実に明快に書かれた優れた記事でしたね。

というわけで、濃密かつ充実した私の音楽漬け一夜は明けたのでした。